撫川城跡
撫川城跡について
永禄2年(1559)に三村家親によって築かれたのが始まりと言われ、三村氏が毛利氏に滅ぼされた後は、毛利氏の『境目7城』の最南端の城として機能した。天正10年(1582)に秀吉によって高松城などとともに落とされた後、宇喜多秀家の重臣だった岡利勝が入り整備された。現在見られる石垣などはこの頃のものと思われる。江戸時代になると、戸川達安が入国し城の東側に庭瀬陣屋を築いた。現在、撫川城・庭瀬城とそれぞれ別の名前で呼ばれているが、これらは200m程しか離れておらず、同一の城所見なす場合も多い。
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【本丸跡】 |
現在見られる部分は本丸跡で、周囲を水堀に囲まれた東西に長い広大な曲輪。周囲には石垣や土塁が残っており、一部に櫓台なのも見られる。現在は三神社の境内となっている。
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【移築門】 |
本丸南側の入口に建てられている門は、撫川知行所総門を明治になって移築したもので、県の史跡に指定されている。
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【石垣】 |
本丸の西面~南面にかけて残る石垣。大きな石を用いて築かれた野面積みの石垣で、高さは4m程ある立派なもの。北西隅には櫓台も見られる。岡利勝が整備した頃のものだろうか。そう言われると、岡山城に残る宇喜多期の石垣とどことなく似ているように見えてくる。
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【本丸周囲の土塁】 |
本丸周囲には、内側からで高さ1m程の土塁が残っており、南東隅には櫓台跡と見られる部分も残っている。
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【本丸周囲の水堀】 |
本丸周囲には、南側の一部が埋め立てられているものの、幅15m程の水堀が全周にわたって残っている。北側で庭瀬城の水堀と繋がっている。
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【井戸跡】 |
本丸内に残る井戸跡。この辺りは少し掘れば、いくらでも水が出た事だろう。現在は埋められており深さ1mもないが、厳重に守られている。貴重なものなのだろうか?
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