庭瀬城跡
庭瀬城跡について
戦国期から築かれていた撫川城の一部を利用して築かれた近世城郭。そのため、撫川城の本丸跡と庭瀬城の陣屋跡とは200m程の距離で、同一の城と見なす事も多いが、江戸期にはそれぞれの城に別の藩主がいた事から、一応ここでは分けて記載した。こちらは関ヶ原後の慶長7年(1602)に戸川達安によって築かれた。その後、城主が小刻み入れ替わった後、元禄12年(1699)に板倉重高が庭瀬藩を立藩し、明治維新まで続いた。現在は城域の殆どが住宅地となっているが、その間に水堀などが残っている。
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【陣屋跡】 |
現在、清山神社の境内となっている陣屋跡。南側の陣屋が建てられていた部分は現在宅地になってしまっているが、北側の水堀と周囲の石垣が良く残っている。現在の神社は寛政6年(1792)に板倉勝喜によって建てられたもので、境内には庭瀬城跡の石碑が建てられている。
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【陣屋北側水堀】 |
陣屋周囲の水堀。大手だった北側の水堀は特に広く、20m以上の幅がある。
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【中島】 |
陣屋跡の北側に設けられた中島。水堀内にある馬出しのような形状をしており、大手の守りとして機能していたものと思われる。現在は妙見神社となっている。こちらも周囲の石垣が良く残っている。
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【不変院】 |
陣屋の北東に位置する不変院とその周囲の水堀。城主だった戸川家の菩提寺となっている。すぐ近くまで民家が迫っているものの、この辺りも水堀が良く残っている。
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【水堀】 |
元々泥沼地だったこの地域一帯には、主郭部のみならず、街中の至る所に水堀の跡が残っている。
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