岡山城 二の丸・西の丸
二の丸・西の丸
【西の丸】 |
慶長8年(1603)頃、岡山藩主の代行として藩政を行っていた池田利隆によって整備された曲輪で、現存する西手櫓もその頃に建てられたものと考えられている。当初は重臣の屋敷となっていたが、寛文12年(1672)に池田光政が隠居後にここに御殿を建てて移った後は、歴代藩主の隠居後の屋敷として使用された。現在は小学校の跡地となっており、西側の一角には庭園跡とみられる池などが残っている。
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【西手櫓】 |
西の丸の西隅に残る現存櫓。慶長8年(1603)頃に池田利隆が西の丸を整備した際に建てられたものと考えられている。城域の西側を守る重要な場所で、外壁面には石落としや鉄砲狭間が設けられている。2009年に訪れた時はすぐ外側に建物が建てられており、見学出来なかったが、2015年に再訪した際には、外側の建物がなくなり駐車場となっており、櫓下の石垣から見る事が出来るようになっており、かなり感動。岡山城に現存する建物は、本丸中の段の月見櫓とこの西手櫓のみで非常に貴重で、重要文化財に指定されている。
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【西の丸西面石垣】 |
西の丸周辺は市街地に埋もれてしまっているが、石垣はビルの間にしっかりと残っている。私有地が多く全面を見て回れないのは残念だが、これはこれで良い感じに調和している気もする。大石を用いた立派な野面積みの石垣だが、宇喜多期に築かれたものだろうか。
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【ホテルから見える石垣】 |
西手櫓近くの石垣下に建てられているコンフォートホテルからは、石垣が間近に見られるよう1階と2階の石垣側が全面ガラス張りになっている。城好きにはたまらない演出で、岡山に宿泊する際は必ずここに泊まるようにしている。
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【西の丸北面石垣】 |
西の丸北側の石垣。西面に比べると、やや新しく見えるので池田期の頃に築かれたものだろうか。この辺りは西の丸から三の曲輪へと通じる要衝で、石垣上には西の丸北西隅櫓が建てられ、東側に北門が建てられ厳重に守られていた。
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【石山曲輪跡】 |
城域の西側、現在も高台となっている石山曲輪は、宇喜多直家が当初城を築いた場所だったらしい。秀家の代になり豊臣秀吉の助言に従って現在の場所に中心部が移された。その後も、石山曲輪は二の丸屋敷として使われ、池田時代に築かれた石垣が残っている。
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【石山曲輪から見た本丸】 |
高台となっている石山曲輪からは、天守と月見櫓が同時に見渡せる。不整形の石垣上にたてられた天守は見る角度によってかなり見え方が違い、この角度から見るとかなりスマートに見える。
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【石山門跡】 |
街中に残る石山門跡の石垣。当時はこの石垣上に、富山城の大手門を移築したものと言われる渡櫓門が建てられていた。明治期になっても残っており、天守とともに国宝に指定されていたが、昭和20年の岡山大空襲で焼失した。石垣が赤っぽく変色しているのは、この際に焼けた跡らしい。
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【二の丸 対面所跡】 |
本丸の西側、現在美術館となっている場所は、当時の二の丸にあたり江戸期時代通じて対面所が建てられていた。
対面所では藩主が家臣などと引見した他、他藩からの使者などの宿沿所や会談所にも使われた。
文政13年(1830)には対面所が取り払われて御殿が建てられた。
現在見られる長屋門は、江戸末期に建てられた武家屋敷の門を明治以降になって移築したもの。
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【二の丸 桜門、桜の馬場】 |
上記の対面所跡の近くには、二の丸の屋敷内を仕切る門があったらしい。門の横に桜の大木があった事から桜門と呼ばれており、内堀に沿った南北に長い広場は桜の馬場と呼ばれていた。
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【伊木長門屋敷内櫓跡】 |
城域南の旭川沿いに残る伊木長門屋敷内櫓跡。現在は石垣が残るのみ。この辺りも二の丸だった。
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