備中高松城跡
備中高松城跡について
秀吉が水攻めした事で有名な城だが、それ以前の事はよく分かっておらず、永禄年間(1558~1570)に三村元親の命により、石川久式により築かれたと言われている。天正3年(1575)の備中争乱石川久式が自害した後は、清水宗治が城主となり、毛利と織田の境を守る毛利方の境目7城として機能した。天正10年(1582)に豊臣秀吉が3万の大軍で備中に攻め入るが、城主の清水宗治は秀吉の誘いにのらず頑強に抵抗し、大規模な水攻めが行われた。この最中、本能寺の変が起こるが、それを知らなかった清水宗治は城兵の助命を条件に切腹し落城した。その後、江戸初期には旗本の陣屋が置かれた時期もあったが、元和元年(1615)一国一城令の際に廃城になったと考えられている。
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【本丸跡】 |
連格式城郭の北端に位置する50m四方ほどの本丸跡。城内では一番高所になるらしいが、周囲との比高は殆どない。確かにこれでは水攻めされたらひとたまりもなさそう。と言うより、3万の大軍で押し寄せられたらあっという間に落ちそうに見えるが、当時はそれだけ周囲の沼が深かったと言う事だろうか。江戸期には徳川氏の旗本の陣屋が置かれていた。
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【本丸 清水宗治の首塚】 |
本丸に建てられている清水宗治の首塚。小早川隆景配下の武将で、秀吉頑強にに抵抗し、備中一国を与えるという条件でも降伏しなかった。最後は城兵の命を救うために切腹した。本能寺の報せが届いていれば・・・
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【二の丸跡】 |
本丸の南側、三の丸との間に位置する二の丸跡。発掘調査はされていないらしく、詳しいことは分かっていないらしい。現在は資料館が建てられている。
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【水堀跡】 |
主郭部の周囲に復元されている水堀跡。現在、水堀の一面蓮に覆われているが、当時から本丸と二の丸の間の堀は蓮池堀と名付けられており、堀が復元された際に地下に埋まっていた蓮が自然に復活したものらしい。400年間地中で種が生きていたとは、種って凄いな。
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【三の丸跡】 |
二の丸の南に位置する三の丸跡。当時は周囲に舟を並べ、舟橋を架けて城外と結ばれていたと言われている。発掘調査で堀や井戸などが見つかっているらしい。籠城時には農民も含む6,500人が籠城したらしいが、とてもこれらの曲輪だけではそんな人数は収容出来なそうに見える。東側に設けられていた外曲輪が結構広かったのだろうか。
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【清水宗治自刃の地】 |
天正10年(1582)6月4日城兵の助命を条件に、城主の清水宗治は秀吉から見える舟上で切腹した。城域の東側の切腹したとされる場所に建てられている、清水宗治自刃の地。秀吉が本能寺の変を知ったのは前日の6月3日、毛利方は切腹直後に知ったと言われている。確か魚津城も似たような状況だったな。
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【ごうやぶ遺跡】 |
『清水宗治自刃の地』のすぐ南にある『ごうやぶ遺跡』。切腹した清水宗治の後を追って家臣らが互いに差し違えて殉死した場所と言われている。周囲からも相当慕われていた武将だった。
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【舟橋】 |
城域の南に位置する舟橋。秀吉による城攻め以前は細い道があったらしいが、戦さの前に八反堀を堀り舟を並べて舟橋としたらしい。現在は細い川の横に石碑が建つのみだが、舟橋の長さは64mあったらしいので、相当広い堀と言うか湿地だったと思われる。
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【胴塚】 |
城域の北側に位置する胴塚。切腹後、首級のない胴体部分のみとなった清水宗治の遺体が本丸に戻り、近くに葬られた。その際、介錯人も後を追ったらしい。現在は民家の間にあり、見学しにくい。
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【蛙が鼻築堤跡】 |
高松城跡の東に残る蛙が鼻築堤跡。この部分は堤の東端にあたる部分で、ここから足守川まで約3kmに渡る堤を築き水を引き入れた。°時代の記述通り基底部約24m、上幅はその半分、高さが7~8mに及ぶ規模の大きなものだが、12日間で築いたと言われている。現在は殆どの部分が失われてしまっており、ここと足守駅近くに一部が残っているのみ。
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【蛙が鼻築堤跡】 |
近年、発掘調査が行われ、現在の水田の下1m位の場所で基底部が確認されている。杭列などとともに、土俵の痕跡も見つかっている。
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【足守川】 |
現在も市内を流れる足守川。秀吉による水攻めの際は、土塁を築いてこの川の水を引き込んだ。
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【最上稲荷】 |
城跡とは直接関係ないが、蛙ヶ鼻の近くに建てられている巨大な鳥居は最上稲荷のもの。最上稲荷は伏見、豊川と並ぶ日本三大稲荷のひとつらしい。よく分からないが、何だかすごそう。
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