芥川山城跡
芥川山城跡について
永正17年(1520)に室町幕府管領だった細川高国が能勢頼則に命じて築かせたのが始まり。その後、高国を滅ぼした細川晴元が入城したが、長くは続かず天文8年(1539)に家臣だった三好長慶によって京を追われた。長慶は一旦は従兄弟の芥川孫十郎に預けたが、謀反の企てがあるとして攻め落とし、天文22年(1553)には自身が入城した。以降7年間にわたってこの城に在城し、ここを拠点として畿内一円を支配したが、将軍家を擁立せずに直接支配していた事から、この時期は『芥川政権』とも呼ばれている。長慶の死後、永禄11年(1568)に上洛した織田信長は、上洛直後に真っ先にこの城を攻め落として将軍義昭とともに入城している事からも、当時重要な城だった事が分かる。その後、信長配下の和田惟政、是政の重臣の高山友照が城主となったが、高槻城に移り、廃城となったと思われる。
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【登城路①】 |
南東に伸びる尾根から登城する。城の中枢部との間は谷津のようになっており、数段に削平された棚田になっている。所々に石垣も見られるので、当時の遺構かとも思ったが、これは近年になって造成されたものらしい。
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【登城路②】 |
登城路沿いには、石垣や溜池が見られる。場所的にも東曲輪群の縁の遺構にも思えるが、当時のものかは定かではない。いずれにしても、あまり飽きない登城路と言える。
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【東曲輪空堀と石垣】 |
しばらく歩くと東曲輪群とその東の帯仕切山とを隔てる空堀に出る。とは言っても自然地形に近い谷間で、本気で防御を固めている感じには見えない。また、東曲輪方面には石垣が築かれているが、これも高さ1m~2m程度のもの。堀底道は北の亀山方面へと続く間道としても使われていたと思われる。
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【東曲輪】 |
唯一の地続きで地形的に弱点だった東側を守る東曲輪。曲輪内は藪に覆われているが、周囲には土塁が残っている。また、南側には虎口跡と思われる土塁の開口部が見られる。
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【東曲輪 石碑】 |
東曲輪内には、墓石っぽい石が数多く置かれており、貞享、元禄、享保などの刻まれた年号がはっきりと読み取れる。結構古いが、この頃には既に廃城となっているはず。廃城後も地元の人々に使われていたのだろうか。
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【竪土塁】 |
東曲輪から南に下がる斜面には、山腹の移動を阻む二本の竪土塁が残っている。やはり東からの守りを強く意識していた事が分かる。東側はの竪土塁はやや分かりにくいが、西側は明瞭に残っている。この時期としては、結構珍しい遺構のように思う。
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【東曲輪~出丸 掘切と土橋】 |
東曲輪とその西側の出丸との間には自然地形を利用した規模の大きな掘切が掘られており、その掘切には土橋が設けられている。巨大台風が大阪を襲った後だったため、堀切には多くの木が倒れているが、かなり規模の大きい掘切だったことが分かる。東曲輪とこの掘切で東側の防御を固めていた。
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【出丸】 |
上記の土橋を渡ったところには、虎口跡と思われる切り通しが見られ、その先が出丸の北側の曲輪下に出る。出丸内には大きな石を用いた石垣が残っているらしいが、周囲をイノシシゲージで囲われており、入口が分からず入れなかった・・・
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【大手道~本丸】 |
出丸の北側を抜け西側に出ると、少し開けた場所に出る。ここで出丸の西側に設けられていた当時の大手道と合流しており、合流地点には『城山城』と書かれた石碑が建てられている。この辺りも台風の被害が凄い。
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【大手道】 |
大手道も倒木が酷く通行出来ない状態らしいが、石垣の場所までは何とか通れるようにしてくれているらしいので、下ってみる。確かに凄いことになっているな。
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【大手石垣】 |
こちらも倒木に覆われてしまっていた大手石垣。この時期の城にしては、かなり大きな石を積んだ立派なもので、大手から登城する人を威圧していた。
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【大手~本丸】 |
大手石垣から下は倒木で通行出来ないので、再度東曲輪からの登城路との合流点まで戻り本丸へ。この辺りも、かなり倒木が酷い。地元の有志の団体が整備してくれているようだが、被害が大きすぎて間に合っていない感じ。ニュースにもなっていたが、今回の台風はホント酷かったんだな。
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【本丸南側虎口】 |
道沿いに進むと、本丸南側の数段にわたって設けられている腰曲輪に出る。ここから倒木で阻まれた虎口を登る。木はともかく、根でだいぶ地形が変わってしまいそう。元々ありもしなかった土橋などが遺構っぽく出来てしまいそうで心配。
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【本丸腰曲輪】 |
上記の虎口を登ったところが、本丸一段下を取り巻く腰曲輪。北側を除く三方に設けられており、周囲の切岸加工がはっきりと残っている。
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【本丸東側虎口】 |
腰曲輪から本丸へは東側に設けられた虎口から登る。ここも倒木処理の途中だったが、とりあえず通れるように切れ目を入れてくれていた。
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【本丸跡】 |
尾根の西側のピークに設けられた本丸跡。発掘調査の結果、大規模な礎石建物の跡が見つかっているらしい。そうだとすると、一般的な戦国期の山城のイメージとはだいぶ違ってくる。石垣といい礎石建物と言い、流石は三好長慶の城だけあり、当時としては最先端の城だったと思われる。しかし、この辺りも被害が凄い。看板は全て倒されて、倒木にたてかけてあった。
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【本丸の祠】 |
本丸には、ここの城主で最初の天下人とも言われている三好長慶を祀っている祠が建てられている。この祠も酷い状態。
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【本丸虎口跡】 |
本丸の東側。現在の虎口となっている場所の北側には、数段に渡る虎口跡と思われる削平地が見られる。この時期にしては珍しいが、この城ならすでに外枡形のような形状をした虎口が設けられていた可能性もある。確認したかったが、藪が酷くて降りれなかった。
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【本丸からの眺め】 |
本丸からの眺め。京と摂津を結ぶ街道を見下ろす場所に位置する要衝だった事が分かる。三好長慶、織田信長もここからの眺めを目にしていただろう。
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【本丸北側腰曲輪】 |
本丸の北側、一段下がった場所に設けられている腰曲輪。曲輪の西側には本丸から続く土橋だか土塁のだか、よく分からないかんじの形状が郭の北側まで続いている。土塁にしては片方だけで中途半端だしなぁ。
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【西曲輪】 |
主郭の北側からは、西側に続く尾根上に西曲輪が接続している。ここだけでも結構な広さ。腰曲輪との間には小規模ながら明瞭な掘切が残っている。
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【西曲輪西側】 |
西曲輪の西側には尾根を断ちきる掘切が設けられている。もっとも、この先は芥川の渓谷なので、この方面から攻めてくるのは難しそう。
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【田ノ丸】 |
今度は本丸から南側へ。南に続く尾根上に田ノ丸と呼ばれている曲輪が設けられているが、田ノ丸と主郭部との間は掘切というより、東曲輪で見られた竪土塁のような畝状になった竪堀が設けられている。
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【田ノ丸~南曲輪】 |
田ノ丸の谷を挟んだ南側にある南曲輪と呼ばれる出丸には、巨大な掘切が残っていると言うことで、厳しいのは承知の上で何とかして行って見ようと思ったが、完全に道がなくなってしまっており、通行不可。こればかりは仕方が無いな。
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