烏帽子形城跡
烏帽子形城跡について
楠木正成が築いた楠7城の一つとの言い伝えがあるが、信憑性は低い。信憑性のある記述としては、文正元年(1466)の畠山氏の家督争いの頃からの記録が残っている。ちなみに、この家督争いに幕府が介入した事が応仁の乱のきっかけとなっている。その後も戦国期を通じて畠山氏の争奪が繰り返された。畠山氏滅亡後は、信長の時代を経て、天正12年(1584)に秀吉が河内の拠点として中村一氏に整備させた。現在見られる遺構はこの頃のものと思われる。その後、キリシタン大名が城主になったりしたが、元和元年の一国一城令の頃に廃城になったと思われる。現在も住宅地の中にありながら、遺構が良好な状態で残っており、近年国の史跡に指定された。
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【公園】 |
城山の南西側に駐車場があり、そこから城山に直上することも出来るが、西側山麓の公園から尾根伝いに登城してみる。と思ったが、台風の影響で立入り禁止とのこと。確かに芥川山城も酷かった。しかし、折角ここまで来てあきらめるわけにも行かず、自己責任と言うことで、で少しだけ登ってみる。
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【土橋】 |
西側の尾根伝いに城域に進むと、尾根の両側を削って設けたと思われる細い土橋が見られる。特に北側はかなりの急傾斜。すぐ近くまで宅地が迫っており、あまり比高も感じないが、当時は意外と要害地形だったのかもしれない。
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【掘切】 |
土橋の先に出てくる掘切。規模は大きくないものの、明瞭に残っている。この掘切で西側の尾根筋と城域とを隔てており、ここから先が実質の城域と思われる。
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【堀底道】 |
掘切の先は、そのまま遊歩道が堀底道になっている。主郭部に設けられた二重堀の外側の堀にあたる。幅の拾いは小堀で、外側にも土塁が残っている。
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【登城路】 |
登城路には倒木が見られるものの、普段あまり整備されていない山城などに比べれば全然たいしたことは無い。この前に訪れた芥川山城の方が被害としては全然酷かった。退却しないで良かった。
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【虎口】 |
堀底道を進むと、主郭部南側の空堀に出る。この空堀との間には土塁を切り取った虎口が見られるが、これは遺構かどうかはよく分からない。
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【南側空堀】 |
主郭部の南側の広大な空堀。幅10m以上ある箱堀で、外側には土塁が築かれている。東西の空堀は二重になっているが、この部分は一重。また、この堀底には堀内障壁と呼ばれる2mの垂直の段差が設けられていたらしい。要するに畝。言われてみると、案内板の近くに僅かにその痕跡も見られるが、2mもの高さがあったとは凄いな。
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【南東側空堀(内側)】 |
堀底を通り南東側の空堀へ。この辺りは外側に重厚な土塁が築かれており、一部が櫓台のようになっている。この土塁の外側にはもう一本空堀が掘られており二重になっており、かなり守りが堅い部分。
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【虎口跡?】 |
上記の土塁の南側に一部虎口のような土塁の切り欠きが見られる。ここに虎口を設けて、ここを守る櫓が土塁上に建てられていた可能性もある。
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【南東側空堀(外側)】 |
南東側の空堀は二重になっており、こちらが土塁を隔てた外側の空堀で、迷路のようになっている。実際に戦が何度も行われた城だけあり、かなり実践的に造られている感じがする。
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【東側土橋】 |
東側の空堀に架けられた土橋。案内板によると、幅0.6m、長さ1mとの事だが、現状はそれよりもだいぶ、幅が広い。形状的にも明瞭な感じがしないので、だいぶ崩れてしまっているのかもしれない。
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【東側空堀と土塁】 |
土橋の北側にも空堀が続いている。空堀の外側に設けられた土塁には『土橋』と案内板が建てられていたが、そうなのかな?
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【東側】 |
東側の一帯は斜面に沿って数段の複雑な地形が続いており、ちょっとカオス。正直、どういった遺構だったのかよく分からないが、何かしら手を加えられている感じは分かる。この斜面を下りていったところが八幡神社。確証はないが、こちらが大手だったような感じ。
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【北東側掘切】 |
その中で、唯一はっきりと分かりやすい遺構が北東側の尾根を断ちきる掘切。ここは比較的規模の大きい掘切が明瞭に残っている。
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【西側空堀】 |
主郭に登る前に西側空堀へ。こちらも二重になっており、写真は内側の空堀で、主郭の周囲を北側まで回り込んでいる。また、登城路となっていた堀底道が土塁を隔てた外側の空堀にあたる。このすぐ西側が主郭だが、高低差は10m以上ある急傾となっており、直上は難しい。
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【2郭】 |
西側に主郭への登城路はなさそうなので、東側に戻り主郭部に登る。最初に出る郭が2郭。主郭の東側に位置する南北に長い腰曲輪のような形状だが、そこそこ居住性はありそう。台風被害で、結構木が倒れていた。
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【主郭】 |
標高182mの城山の最高所に位置する主郭。南北に細長い土塁のような郭。実際に、現在の2郭が主郭に相当し、その主郭に設けられた土塁とする見方もある。確かに居住性は乏しく、見方次第のような気もするが、一応2棟の建物跡も見つかっているので、郭と言うことで。
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【主郭 建物跡】 |
発掘調査の結果見つかった2棟の建物跡は、いずれも礎石建物で、また近くから大量の瓦が見つかっていることから、瓦葺きだったと思われる。いわゆる近世城郭の多門櫓のような建物が建っていた事になるが、この時期の山城の主郭にしては非常に珍しい。
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【主郭からの眺め】 |
主郭からの眺め。北側にはすぐ近くまで住宅地が迫っている。このような場所で中世山城の遺構がこれだけ残っているのは奇跡に近い。
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【八幡神社】 |
東側山麓に残る烏帽子形八幡神社。すぐ横の城で何度も戦があったにも関わらず、文明12年(1480)に建立された本殿が現在も残っている。武士の守り神である八幡神社なので、攻め手にとっても守り手にとっても戦火に巻き込まないように注意していたのだろう。近年では逆に城山がこの神社の境内林となっていたため、開発から守られた。本殿は現在重要文化財に指定されている。
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【主郭からの眺め】 |
河内長野市によって建てられている注意書き看板。市の史跡だった平成15年に建てられたものだが、平成24年に国の史跡に指定されている。2段階特進。確かに国の史跡にふさわしい遺構だったな。
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