Japanese Castle

高槻城跡

高槻城跡について

 14世紀前半に細川氏の被官となっていた入江氏の居館としていたのが始まり。永禄12年(1569)には和田惟政が城主となり高槻城の基礎が築かれた。この頃、天正元年(1573)に最古級の天主が建てられていたらしい。その後和田氏を追放して城主となったキリシタン大名の高山右近により整備され、城下には教会も建てられた。それ以降は豊臣直轄領を経て、譜代大名が頻繁に交代した。慶安2年(1649)に永井直清が3万6千石の大名として入城し、その後13代にわたり幕末まで続いた。明治期になり、鉄道建設のために多くの石垣が運び出されてしまい、現在は遺構は殆ど残っていない。
【石碑】
 本丸跡付近に建てられている高槻城の石碑。石碑の横には本丸の発掘調査で出土した石垣石が置かれている。
【本丸跡】
 現在高校の敷地となっている本丸跡。本丸に御殿は建てられていなかったが、古絵図によると南西隅に三重の天守が建てられており、明治まで存在した可能性があるらしい。
【城址公園】
 本丸跡の東側は城址公園となっており、それっぽい石垣と水堀が造られているが、これは完全なつくりもので遺構とは関係ない。この場所は、当時は本丸東側水堀内にあった弁財天の位置にあたる。
【高山右近像】
 上記のつくりものの石垣と水堀の横に建てられている高山右近像。築城の名手として有名な高山右近は、城巡りをしていると色々な場所に出没するが、ここが城主として最初に整備した城。キリシタン大名としても有名で、それが原因で秀吉に領地を没収されたり、徳川幕府により国外追放されたりしており、渡航先のマニラで亡くなっている。無礼な鳩が銅像の頭のところでずっと休んでいた。
【三の丸跡】

 城址公園の東端は、当時の三の丸東郭の東端にあたり、公園の縁の段差は外堀の名残らしい。高低差は2mもない僅かなものだが、このような市街地で良く残っていたものだと思う。どこまでが遺構かはよく分からないものの、折れのようなものも見られる。
【しろあと歴史館】
 当時の三の丸内に建てられている『しろあと歴史館』。入ってすぐのところに巨大石垣が再現されており、実物の石材が3箇所使われているらしい。その他、古写真やジオラマなどが展示されている。
【思案石】
 歴史館の前にある思案石。当時は外堀沿いの角にあった石で、生活に苦しんだ人がこの石に腰をかけて堀への身投げを思案したという言い伝えがある。本当かどうかはともかく、矢穴の跡が残っている。
【東大手門跡】
 街中に残る東大手門跡。高槻城の大手は東側で、現在も三の丸の東に設けられていた東大手門跡に名残が残っている。当時は内枡形の厳重な虎口で、門の内側には家老や奉行などの屋敷が並んでいた。
【野見神社】
 三の丸内の北大手に鎮座する野見神社。古くから地元で信仰されてきたが、キリシタン大名だった高山右近が城主の頃には社領を没収されている。この辺りはやはり排他的だなぁ。しかし、その後城主となった松平氏、永井氏などにより再興され、現在は境内に摂社として、摂津高槻藩の初代藩主となった永井直清を祀った永井神社も建てられている。
【天主教会堂跡】
 キリシタン大名だった高山右近により城内に建てられた天主教会堂跡。ルイス・フロイスの記録によると、天正2年(1574)に高山右近はここに天主教会堂を建て、キリスト教の布教をしたらしい。現在は石碑が建てられているのみで遺構は何も残っていないが、キリスト教布教の歴史上重要な場所として、府の史跡に指定されている。
【内堀跡】
 歴史館の西側を南北に通る道路は、当時二の丸の東側を巡っていた内堀の跡。この周辺の発掘調査では、高山右近時代の幅約24mあったとされる大堀跡も確認されているらしい。
【外堀跡】
 歴史館北側の直角の折れが続く路地は、三の丸の北東に建てられていた丑寅櫓外側の部分の外堀跡。遺構は殆ど残っていないが、随所に当時の名残が見られ、これはこれで面白い。
【枡形門石垣】
 街中に残る石垣の石材。中学校建設に先立つ発掘調査で出土したもので、厩郭枡形門の石垣に使われていたものと考えられている。確かにこの辺りはちょうど厩郭の北側にあたる場所。掘れば掘るだけ色々なものが出てくるのだろうな。ちなみに、矢穴列の形状から、江戸時代初期に切り出された石であることも分かっているらしい。