唐津城
唐津城について
唐津湾に半島状に突き出した満島山に築かれた平山城で、豊臣秀吉の側近だった寺沢広高により慶長7年(1602)から6年かけて名護屋城の資材を用いて築かれたと言われているが、本丸から金箔瓦が見つかっている事などから、名護屋城と同時期に詰めの城として築かれたという可能性もある。その後、寺沢氏が取り潰しとなり、一時天領を経た後、譜代大名が度々入れ替わりながら、明治期まで存続した。ちなみに、天保の改革を行った水野忠邦を輩出している。明治10年から舞鶴公園として一般公開され、昭和41年には模擬天守が建てられている。
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【大手道】 |
城山の南に設けられている城山に登る大手道の石段。途中で一階折れる箇所があるが、それ以外は直線的な幅広の石段。この石段の下に当時は坂口門が建てられていた。
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【多宝塔】 |
現在本丸となっている満島山は、唐津城築城以前は水害救難の寺社が集まった場所だったらしく、その頃に造られた石塔が石段下の坂口門跡辺りに残されている。
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【大手虎口】 |
石段を登り左に折れた場所に本丸二の曲輪に至る虎口が設けられている。左右に二階折れる枡形虎口で、門の大きな礎石が残っている。
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【本丸二の曲輪】 |
本丸は南北で二段に分かれており、大手虎口を入った南側は一段下がった二の曲輪にあたる。南側には見事な石垣が残っており、石垣上には土塀が再現されている。また、曲輪内の西側からは古い時期の石垣とともに金箔瓦も見つかっており、秀吉の頃に築城されていた可能性が高い事が分かった。
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【本丸南側虎口】 |
本丸南側の二の曲輪から北側の本丸へは、石垣沿いに設けられた石段を登り、左に折れた場所に設けられた本丸櫓門から入るルートだった。訪れた時は本丸石垣の工事中で通れず、門も解体されていて残念。
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【本丸石垣】 |
修復工事中の本丸石垣。南面の石垣には石一個一個に番号がふられている。平成20年度から工事しているらしいので、既に10年経つ。この南面の石垣は直線的な石垣で孕みも見られないので、積み直しが終わった状態だろうか。修復前も写真を見る限りでは、それ程危なそうには見えなかったけどな。ここよりもマズそうな城は他にも結構ありそうな気がする。
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【西門口石段】 |
と言う事で、天守西側の西門口石段から西門を経て本丸に登る。西門は天守と化粧櫓とを繋ぐ渡櫓に設けられた門で、厳重に守られている。
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【本丸跡】 |
標高43mの満島山の山頂に位置する本丸跡。天守こそ建てられていなかった可能性が高いが、周囲を石垣と櫓で囲んだ堅固な造りだった。
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【模擬天守】 |
本丸の南側建てられている模擬天守。現在ではすっかり唐津城のシンボルとなっているが、築城当時に天守が築かれていたという記録はない。2代藩主の堅高が正保期に描かせた絵図には既に天守が無いので、建てられていなかった可能性が高い。一説によると、名古屋城の天守を移築する予定だったが断念したとも言われている事から、現在見られる天守は肥前名護屋城図屏風に描かれている名護屋城天守を参考にして昭和41年に鉄筋コンクリートで建てられたもの。これ程しっくり馴染んでいる模擬天守も珍しい。
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【天守台石垣】 |
近年積み直された天守台石垣。高さ10m程の立派な石垣だが、積み直しの際には模擬天守をそのままにして、下部の石垣だけを解体して積み直したらしい。基礎杭の入った模擬天守だから出来た事だろうが、凄い事するな。
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【穴蔵】 |
天守台は穴蔵形式だった。名護屋城の天守台も浅いながらも一応穴蔵形式だったので、名古屋城天守を移築しようとしてたというのもあり得る話に思える。現在は模擬天守の入り口となっている。
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【天守からの眺め】 |
海に突き出した本丸からは三方海が見渡せる。北側には唐津湾の島々、東側には日本三大松原の一つの虹ノ松原が見える。
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【化粧櫓】 |
天守の北側には隣接する二重の化粧櫓が建てられている。発掘調査の結果、地鎮祭祀の遺物が出土しているらしい。
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【祈祷櫓・エレベーター】 |
現在は本丸の西側下の腰曲輪から本丸北側に建てられている祈祷櫓まで斜面を直上するエレベーターが設けられている。比高40m程度なので、エレベーターは使わず大手から登ったけど。祈祷櫓は模擬なのだろうか?
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【北門】 |
上記の祈祷櫓横に設けられている搦手にあたるの北門。ここから腰曲輪を経て東側山麓まで続いているが、工事中のため通行止めだった。
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【旗竿石】 |
本丸には、名護屋城の鍋島陣屋にあった旗竿石が置かれている。ただ、これは旗竿等を立てていたものではなく、実際には手水鉢だったらしい。そう言われてみれば、旗を差すにしては穴が大きいような気もする。
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【腰曲輪】 |
本丸がある海に突き出した満島山の周囲には、約1kmにわたる腰曲輪が設けられている。外周には海岸から高さ10m程の石垣を築き、所々に出隅を設けて海からの攻撃に備えていた。
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【腰曲輪 復元土塀・櫓台】 |
腰曲輪の東側石垣上に復元されている平櫓と土塀。正保城絵図には、この場所には二重櫓が描かれているので、現在の櫓はどこまで検証に基づいた復元なのかは分からないが、天守同様それっぽく見える。当時は腰曲輪に6基の櫓が設けられていた。
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【下屋敷跡】 |
本丸の南側山麓、現在駐車場となっている場所は下屋敷跡。櫓と土塀が再現されている。
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【二の丸】 |
本丸の西側山麓の現在高校の敷地となっている場所は当時の二の丸にあたる部分で、藩主の御殿が建てられていた。周囲の石垣が良く残っている。南面に比べると北面の方が古い感じの石垣で良い雰囲気。
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【二の丸南面石垣】 |
上記の二の丸南面の石垣には、隅部を増設したような部分が見られる。ちなみに、この辺りには切手門が設けられていた。
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【修復中の石垣石】 |
二の丸北側の砂浜には石垣の石が並べられていた。現在修復中の本丸西側の石を並べたものだろうと思われる。これから順番通り積んでいくのだろうが、大変な作業だな。
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【舟入門】 |
二の丸から切手門を入った下曲輪に設けられていた舟入門跡。東側の水入門とともに水運の重要な門として機能していた。当時の舟入部分は埋め立てられてしまっているが、川沿いに一部石垣が残っているらしい。
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【舟入門付近のふぐ】 |
舟入門のあたりは、一応町田川の河口になるが、完全に海水が入り込んでいるらしく、ふぐが泳いでいた。水も綺麗で良い感じの場所。
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【町田川沿いに残る石垣】 |
二の丸の南側~三ノ丸の西側を流れる町田川沿いには石垣が残っている。
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【辰巳櫓】 |
三ノ丸の南東隅、町田川と柳堀とが交わる場所に建てられていた辰巳櫓。明治期に解体されたが、近年櫓台の石垣とともに再建された。再建では平櫓だが、正保城絵図には二重櫓が描かれている。
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【三の丸南側石垣】 |
辰巳櫓の西側には断片的にではあるものの、三ノ丸南面の石垣が街中に残っている。この西側に三の丸の大手門が設けられていた。
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【肥後堀】 |
唐津市役所の南に復元されている肥後堀。三ノ丸と外曲輪とを隔てる水堀で、当時は石垣沿いに長さ約300m、幅20m以上あった。
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【三の丸石垣】 |
復元された肥後堀の西側にも三の丸の石垣が続いている。南西隅の当時二重櫓が建てられていた立派な櫓台も残っており、そこから石垣が北に折れている。街中に埋もれながらも、しっかりと当時の三の丸の形状が確認出来るのは嬉しい。
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