吉野ヶ里 北内郭・中のムラ・北墳丘墓
北内郭
【北内郭】 |
環濠集落の最も北に位置する北内郭。南内郭と共に吉野ヶ里にある中心区域の一つで、特にこの北内郭は吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要区域だったと考えられており、当時は指導者達だけが出入りできる神聖で特別な場所だったと思われる。発掘調査に基づいて、主祭殿など多くの建物がが復元されている。
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【北内郭 環濠】 |
南内郭も一部は二重の環濠になっていたが、こちらは完全に周囲を二重の環濠に囲まれた独立郭となっている。
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【西側虎口】 |
北内郭の西側に設けられた虎口。二重の環濠に土橋を喰違いで設けており、基本的な防御構想は中世城郭と変わらない事が分かる。二重の環濠を抜けた場所に復元されている塀も発掘調査の結果に基づいているものらしく、かなり堅固な虎口だったことが分かる。
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【主祭殿】 |
吉野ヶ里最大の建物で、クニ全体のまつりことを司る最重要施設。重要な事柄をは全てここで決められていた他、祖先の霊に祈りを捧げる儀式なども執り行われていたと考えられている。勿論柱穴しか残っていないので、建物自体は古代中国の建物などを参考にした推定復元だが、かなり立派な良い感じの復元建物になっている。
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【主祭殿内部】 |
主祭殿の内部には、最高司祭者が儀式を行っている場所が再現されている。完全に卑弥呼のイメージ。
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【高床住居】 |
神聖な区域内にある、ほぼ正方形の柱穴。高床式倉庫とも形状が異なるので、最高司祭者の住居だったと考えられており、推定復元されている。最高司祭者は一般の人々の前には殆ど姿を現さなかったとの事なので、普段はずっとこの中にいたのだろうか。また、光を取り入れる窓もなく、昼間でも中で明かりをともしていたと考えられている。最高司祭者などには絶対になりたくないものだ。
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【東側出入口】 |
これらの他にも、北内郭にはまつりや儀式に使われたと思われる斎堂、二重の環濠の間に建てられて、季節ごとの祭りの儀式が行われていたと思われる東祭殿、最高司祭者の従者の住まいと思われる竪穴住居など、多くの施設が復元されている。
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【東側出入口】 |
北内郭には西側の虎口の他に東側にも随分と開放的な造りの出入口がある。これは公園化にともなって造られたものっぽく、発掘時の状況を見ると、ここに虎口の跡はなかった。折角建物なども頑張って復元しているのに、この出入口を造ってしまうと大きくイメージが変わってしまう。この辺も発掘調査に基づいて正確に復元して欲しいな。
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中のムラ
【中のムラ】 |
北内郭の西側には、司祭者に使える人々や、北内郭のまつりごとを補佐する役割の人々が住んだと思われる住居跡や倉庫群からなる中のムラがあった。
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【中のムラ 倉庫群】 |
中のムラに高床式で復元された倉庫群。まつりこごで使う織物や衣類、道具などを納めていたと考えられる。
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【中のムラ 住居跡】 |
倉庫の他にも、いくつかの住居跡も復元されている。この区域では、祭りや儀式で使う酒造りや、絹織物をつくるための養蚕や機織りなど、司祭者に仕える人々が暮らしていたと思われる。
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【中のムラ 西側環濠】 |
中のムラ西側の環濠。この部分は一部壕底を歩けるようになっている。しかし、薬研堀なので非常に歩きにくい。当時は堀底道としては使っていなかったのだろうか。
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北墳丘墓
【甕棺】 |
北内郭から環濠集落北端の北墳丘墓エリアへ。このエリアは集落内でも最も神聖なエリアだったと思われる。途中、甕棺に入れられた墓が、発掘された状況のまま復元展示してある。甕棺は2つの甕を合わせてカプセルのような形にして埋められていたらしい。
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【北墳丘墓】 |
一般の墓とは違い、ガラスの管玉や青銅の剣などの貴重な副葬品を伴う14基の甕棺が見つかっている。吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓と考えられている。弥生時代の後半には墓ではなく、祖先の霊を祀る祭壇として信仰の中心となっていたと考えられている。現在は北側から墳丘墓の内部に入れるようになっており、発掘状況のまま展示されている。ここに展示してある甕棺は本物らしい。
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【墓道】 |
環濠の外から北墳丘墓に続く堀底道のような通路。北墳丘墓にお参りするための専用の参道だったと考えられている。
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【祖霊の宿る柱】 |
北墳丘墓のすぐ横に建てられていた柱。祖先の霊が宿る柱と考えられており、直経50cm程、高さ約10mの柱が再現されている。
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【祀堂】 |
北墳丘墓のすぐ横に建てられていた建物跡は、歴代の王の霊に供え物や祈りを捧げるていた場所と考えられている。
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【空堀と土塁】 |
北橋の環濠。この辺りの環濠は幅が広く箱堀となっている。墓道と見た目あまり変わらない。墓道同様、堀底道としても使われていたのかもしれない。
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