川越城



【本丸御殿】
 二の丸御殿の焼失後の嘉永元年(1848年)に建てられた。巨大な唐破風の玄関で、 17万石の大名の格式に相応しい御殿だったことが分かる。現在は、玄関部分と移築 復元された家老詰所が残っているのみだが、当時の絵図によると、広大な御殿だったことが分かる。 平成22年に保存修理工事が終了した。

【本丸御殿】
 玄関を入ると、36畳の大広間があり、その横に詰め所や使者の間などが並んでいる。

【東廊下 西廊下】
 西廊下と比べると、玄関のある東廊下の方が天井が高くなっている。

【中ノ口】
 御殿北側の、間口2間半の玄関。

【家老屋敷】
 御殿に隣接して建てられている家老屋敷。

【家老屋敷 トイレ】
 家老屋敷に残るトイレ。

【保存修理中の本丸御殿】
 2008年に行った時は保存修復中で見学できなかった。


【富士見櫓】
 築城当初、川越城にば本丸の東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に 三層の富士見櫓があったが、天守閣がなかった為、一番高所にあったこの富士見櫓が 天守閣の代わりとなっていた。城の構造及び建造物は戦略上の都合もあり、その大部分が 明らかにされる事はなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応二年(一八六六)に 川越城を測量した時の記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約15m)、横八間 (約14m)あったと記されている。現在、御嶽神社が祀られているこの高台は、木々や 建物のため、眺望は失われてしまったが、以前は富士見櫓の名の通り、富士山まで望めた。

【富士見櫓】
 数段に渡って削平されており、最上部はそれなりの広さがある。一段下がったところには 現在は御岳神社が建っている。

【富士見櫓 堀跡】
 周囲は宅地に囲まれているが、堀跡は一段低くなっている。

【富士見櫓 田曲輪門跡】
 富士見櫓跡の西南に碑が建つのみで、殆ど遺構は残っていない。辛うじて堀跡らしきものが 残っているが、当時の遺構であるかは不明。なお、田曲輪門から西が「外曲輪」となる。


【天神曲輪】
 周囲の土塁が形良く遺っている。

【天神様】
 『通りゃんせ〜』 で有名な天神様。かつてはこの参道は薄暗い細道だったらしい。 近くにはわらべ唄の石碑も建てられている。

【天神曲輪 堀跡】
 現在は公園になっている。


【本丸門跡】
 本丸御殿の向かいにあった本丸門跡。その横には、旧本丸玄関だった武徳殿が現在残っている。


【中ノ門堀】
 寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱が行った大改修の際に 作られたものと考えられている。西大手門方面からの攻撃に備えている。


【二の丸跡】
 かつては二の丸御殿が建てられていたが、弘化3年(1846)に焼失した。 現在は博物館や美術館が建てられている。


【時の鐘】
 時の鐘は寛永の頃、酒井忠勝が城主の時に造られた。現在の鐘楼は明治26年の川越大火の後、元の姿のまま 再建されたもので4代目と言われている。櫓の高さは奈良の大仏と同じ。現在も午前6時、正午、午後3時、 午後6時の一日4回鳴らされており、川越のシンボルとなっている。 また、この鐘の傍に薬師と稲荷社があり、薬師は昔本町から移したものである。


【蔵造り】
 重厚な蔵造りの町並みりは、明治26年(1893)の大火を契機に築かれた類焼を防ぐ為の巧妙な耐火建築である。 江戸の町屋形成として発達したもので、現在の東京では見られなくなった江戸の面影を彷佛させる。 その伝統的な町家群に加え、近代洋風建築など永きにわたる多様な様式の建物が連なる町並みは、江戸時代から 現代へ至る変遷を示し、特色ある歴史的景観を伝えている。平成11年には、国の重要伝統的建造物保存地区に 選定された。


【大手門跡・太田道灌像】
 現市役所周辺が大手門跡で、かつては丸馬出しもあったが、現在では跡形もない。石碑と、太田道灌の像が建っている。


【食い違い】
 本丸と大手門の間は「郭町」という地名で、二ノ丸、三ノ丸にあたる。道は二箇所ほど食い違い状にクランクしていて、 かつて虎口門があったこと偲ばせる。


【川越市街】
旧本町
本町は川越城の西大手の本通りである。古くは本宿といった所で、江戸時代から本町と呼んだ。ここは明治の頃に米穀商品 取引所があった跡なので米商とも呼ばれていた。本町の四ツ辻は昔、高札場があった所なので札の辻と言い、道路元標の 基点とされていた。この本町を中心に昔は市店が立ち繁盛した。
旧南町
札の辻より行伝寺入ロ周辺までを指す。旧十ヶ町のうち上五ヶ町の一。昔は灰市場と呼ばれていた。川越でははじめ他の町に 市がなく、当町にだけ一ヶ月に六斎の灰市が立っていたと言う。後に、川越の街路の起点である札の辻の南にあるため南町と 名付けられた。また、江戸時代よりすでに市中第一の繁華といわれていた。なお、昭和三十六年に現町名となった。
旧多賀町
多賀町は、昔桶屋が開いた事に由来し、桶師取立ての町として城主に桶大工の役銭を毎年出して諸役は免除の所だったと 言われている。


【喜多院 堀】
 喜多院に残る堀。

【喜多院 山門】
 本丸横の土蔵と呼ばれている曲輪。虎口付近には櫓台と思われる土塁が残っている。


【砂久保】
 川越城から数キロ離れた場所にある砂久保陣地。出陣してきた氏康が 本陣を置いたとされている場所。


【東明寺】
 氏康の援軍を知って出陣した綱成が、城から討って出て大激戦となったと される場所。石碑が残っている。