忍城


【忍城】
 忍城は文明十年(1478)頃、成田顕泰によリ築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。 天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと 恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。寛永十六年(1639)、時の老中阿部忠秋が入城し、忍城大改築に着手。 孫の正武の代にいたり、忍城御三階櫓の建設、城門土塀の修築などが完成し面目を一新したという。文政六年(1823) 伊勢の桑名から松平忠堯が移封し、忠誠のとき明治維新を迎え、明治6年(1868)に取り壊されるまでの約四百年間続いた。 現在では城址公園として整備されている。


【模擬御三階櫓】
 現在、本丸の東南には模擬御三階櫓が建っており、展示室になっている。当時は三の丸南の藩校などのある郭に建てられていた。 天守に相当する建物が本丸以外のところにある例は珍しくないが、せいぜい二の丸までであり、これほど城の端の方にあるというのは珍しい。 なお、現在の模擬御三階櫓が建っている辺りは、当時は本丸の虎口があったと思われる。

【本丸跡】
 本丸は100m四方程あり、忍氏の居館がベースとなり、次第に拡張されたものと考えられている。本丸の形状は、 それぞれの塁線に折れが見られ、時代とともに改修を加えられてきた形跡が見受けられる。

【本丸南西土塁】
 南の二の丸と西の土蔵曲輪と橋で結ばれていた本丸西側を囲む土塁。高さは5〜6mあり、現存のものと言われているが、 以前はこれ程の高さは無かったという話もあり、かなり怪しい。城郭体系にも 『現存する遺構は諏訪曲輪のみである』 とある。 なお、城主の住む御殿や役所などの施設はは二の丸、三の丸に配置されており、本丸はあまり使用されていなかった

【本丸南側土塁 土塀】
 本丸の周囲にも土塁が残っている。この辺りもどこまでが往時のものかは分からないが、南側には明確な横矢の折れがある。 また、その土塁の上には鉄砲狭間のある土塀が復元されているが、狭間の向きが逆だった・・・


【鐘楼】
 復原鐘櫓と時の鐘。この場所に根拠はなく、当時は別な場所に建っていたらしい。


【堀】
 本丸を囲む堀は旧状を残しているらしい。現在は整備され、北側の諏訪曲輪側は一部空掘になっている。


【伝進修館表門】
 この門は、行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、かつての藩校「進修館」の表門であったと伝えられて いるが、戦災によって一度移築されていることなどから、確証はない。一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当初は 赤彩された赤門であつた可能性もある。また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、天保三年(1832)に御奉行 後藤五八、大工町世話方大工宋兵衛等によって建立されたことが判明している。忍城の現存建造物としては、加須市の 不動尊にある黒門とこの表門のみで、貴重な歴史的建造物である。昭和35年9月8日に加須市の有形文化財に指定されている。


【復元門】
 本丸周辺には復元されている門。左から御三階櫓わきの復元門、博物館入口の門、本丸東側の冠木門。


【諏訪曲輪 土塁 堀】
 本丸北側に残る諏訪郭跡。この辺りの土塁や水堀は忍城の数少ない現存遺構で、城郭体系にも 『現存する遺構は諏訪曲輪のみである』  とある。すっかり住宅地になっているこの一帯で、当時の低湿地帯を忍ばせる。ちなみに、当時は北側の方が自然の湿地が広がっていた為か、 南側に比べると、曲輪の配備が手薄である。

【諏訪曲輪門跡】
 諏訪曲輪北側、東照宮裏手に建つ「諏訪曲輪御門跡」の石碑。

【東照宮】
 本丸北側の諏訪曲輪内の東照宮。家康の長女・亀姫の息子、松平忠明が造営したらしい。


【水城公園】
 忍城の東600mほどの場所にある水城公園。当時は外構えの堀だった当時は四方に沼が広がり、各曲輪は島のように点在していた。 低湿地と沼はかなり広い範囲にとが広がっており、水鳥がたくさんいたらしい。


【黒門】
 現在、加須市の不動尊にある黒門は、忍城の北谷門を移築したものである。黒門は、行田から熊谷に抜ける県道工事を 請け負った不動岡在住の土木請負師田村重兵衛に払い下げられ、重兵衛が日頃信仰する総願寺に寄進した。黒門は、 総樺造りで、門扉は一枚板からできている。門扉上部の欄間の構造が忍城主松平氏の菩提寺である桃林寺本堂の 欄間と同様であることから天保一三年(1842)の建造と伝えられる。忍城の現存建造物としては高麗門(行田市)とこの 黒門のみである。


【石田堤】
 この堤は、天正十八年(1590年)六月、石田三成によって、忍城水攻めのために築かれたことから、石田堤と呼ばれている。 天正十八年三月に始まる、豊臣秀吉の関東平定に伴い、北条氏に味方する、成田氏の拠城である忍城は、同年六月、 石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって包囲される。石田三成らは、地形を見て、忍城を水攻めする事にし、全長28kmに 及ぶ堤を、わずか一週間で作り上げたと言われている。実際には、自然堤防や微高地を巧みにつなぎ合わせたものと思われ、 現在残っているこの堤も、自然堤防上に、1〜2m程盛土をしたものである。堤の完成後、利根・荒川の水を引き入れたが、 地形的に城や城下町より、下忍・堤根方面に水が溜ってしまい、遂には堤が決壊して水攻めは失敗に終わる。しかし北条氏の 降伏により、忍城は開城した。今日では、ここ堤根に約250mの堤を残すのみだが、江戸時代、日光裏街道沿いに樹えられた、 樹齢三百年余の松や檜葉が並ぶ様は往時をしのばせる貴重なもので、昭和三十四年三月二十日に県指定史跡に指定された。


【丸墓山古墳】
 石田三成が1590年に忍城を攻めた際に、この丸墓山古墳の頂上に陣が張られた。

【丸墓山古墳 石田堤】
 丸墓山古墳から南に続く、現在見学者用の通路となっている所は、石田三成が1590年に忍城を水攻めにした時築いた堤防の土塁跡 と言われている。