彦根城 天守・本丸エリア



【鐘の丸】
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image-1  築城当初、鐘楼がこの曲輪にあったので鐘の丸と呼ばれているが、鐘の音が城下北方に 届かず、太鼓丸の近くに移されてしまったために現在は鐘はない。 当時は『大広間』や『御守殿』などの建物が存在したが、大広間は享保17年(1732)に解体され 江戸へ運ばれ、彦根藩江戸屋敷の広間に転用されたと言われている。


【天秤櫓堀切】
 大手坂、表坂を登ったところに位置する天秤櫓は重要な守りの要であり、高さのある堀切と落とし橋で 防御していた。
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【天秤櫓】
 鐘の丸から廊下橋を渡ったところにある櫓門。慶長8年(1603)から11年(1606)にかけて建立されたもので、 長浜城大手門を移築したと言われている。左右に二重二階の隅櫓を配し、天秤のような形をしているところから 天秤櫓と呼ばれ、この形式の門は他には見られないらしい。また、当時の廊下橋は壁と屋根があり、 中の人の往来が見えないようになっていた。現在は重要文化財に指定されている。
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【天秤櫓石垣】
image-1 image-1  天秤櫓は宝永3年(1706)、天明4年(1784)、嘉永7年(1854)、明治二十五年(1892)にそれぞれ修理が行われているが、 中でも嘉永の修理がもっとも大規模で、このとき中央部から西側の石垣を足元から積み替えるほとの大修理が行われ、 東半分が古式の牛芽積みであるのに対し、西側は新式の落とし積みになっでいる。

【天秤櫓内部】
 建物の外面は柱などを土壁で完全に塗り込める大壁造りなのに対して、内側は柱を見せる真壁造りとなっている。 また、防弾の為に外側下半分の壁の厚さは30cm以上にしてある。普段は弓矢などを保管する武器庫として使われていた。
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【天秤櫓〜太鼓門】
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【時報鐘】
image-1 image-1  鐘は12代藩主井伊直亮により弘化元年(1844)に鋳造されたもので、当初は鐘の丸に置かれていたが、 鐘の音が城下の北の隅に届かなかったので、現在地に移された。現在でも午前6時、9時、正午、 3時、6時の1日5回つかれている。


【太鼓門櫓】
 本丸の表口を固める櫓門で、築城時に他の城から移築されてきたと言われている建物です。 櫓門としては珍しく、その背面が開放されて高欄付の廊下となっている。現在は重要文化財に指定されている。
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【太鼓門櫓内部】
image-1 image-1  狭間などは見当たらず、天秤櫓などと比べると比較的簡素な造りに見える。 壁もあまり厚くないように見える。


【本丸 着見櫓跡】
 本丸西側隅には、着見櫓と呼ばれる5間(9.8m)×6間(10.6m)の二階櫓が建てられていた。 ここから佐和口門、京橋口の監視にあたるとともに、中山道方面から佐和山を超えて城下に入る 切通し道(彦根道)の監視もしていた。櫓は明治初年に取り壊された。
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【本丸 礎石】
image-1 image-1  本丸には御広間や宝蔵、矢櫓、着見櫓などが建てられていたが、天守以外の建物は明治になって取り壊された。 御広間は東西15間(約30m)、南北6間(約12m)で、台所も付設されており、表御殿が出来るまでの江戸初期は 藩主の居館となっていた。現在はその礎石が残されている。

【本丸 井戸】
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【現存天守】
 国宝に指定されている3階3重の現存天守。大津城(滋賀県大津市)の天守を移築したものと伝えられており、 屋根は『切妻破風』『入母屋破風』『唐破風』を多様に配され、2階と3階には『花頭窓』、 3階には高欄付きの『廻縁』を巡らせるなど外観を重視して造られている。
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【天守内部 1階】
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【天守内部 挟間】
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【天守内部 2階】
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【天守内部 3階】
 板戸の中には千鳥破風の屋根裏を利用した部屋が設けられ、2個の隠し挟間が付けてある。
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【付櫓内部】
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【本丸北側石垣】
image-1 image-1  本丸北側、井戸曲輪との間の石垣。高さは10m以上の石垣が並んでいる。


【井戸曲輪】
 本丸の北側、黒門から本丸に向かう登城路の途中に位置する曲輪で、石組み溝で集められた雨水を 浄化して貯水するタイプの井戸があった場所で、升も現存している。また、この郭の北東隅には塩櫓が築かれ、 籠城に備えた曲輪でもあった。この曲輪の上下の石垣は高く、特に下方は彦根城さ最も高い19.4mの高さがある。
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【本丸〜西の丸】
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【西の丸】
image-1 image-1  本丸に隣接する西の丸。西北隅には三重櫓が建てられている。

【西の丸 東側虎口】
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【西の丸北側】
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【西の丸 西側虎口】
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【西の丸三重櫓】
 彦根城に残る3つの三重櫓のうちの一つで、西の丸の西北隅に位置し、東側と北側に それぞれ1階の多聞櫓を付設している。小谷城天守を移したと伝えられており、 装飾的な破風などは無く、総漆喰塗りの簡素な造りとなっている。 嘉永6年(1853)に大修理され、柱や梁の8割近くが移築時のものから取り替えられた。 現在は重要文化財に指定されている。
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【西の丸 三重櫓内部】
image-1 image-1  1層、2層は攻撃用として城外側に窓が設けてある。また、移築・転用されていた為、 階段の床板や側柱などにはほぞ穴の跡が残っているらしいが、良く分からなかった。


【西の丸〜出曲輪】
 裏手からの守りとして西の丸と出曲輪の間に設けられた大堀切。この大堀切には木橋が架けられていた。
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【出曲輪】
image-1 image-1  西の丸と大堀切を隔てた西側にある馬出しの機能を持った曲輪。『井伊年譜』には、この出郭の石垣を 穴太衆が築いたとの記録が残っている。

【出曲輪 虎口】
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【本丸 北側の眺め】
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【佐和山城】
image-1  彦根城の東2kmにある佐和山城。石田三成の居城だったが、彦根城築城の際に石材などが 運び出された。