長浜城
【長浜城】
室町時代の初め頃に京極道誉(佐々木高氏)が出城を築いたのが始まり。 天正2年(1574)頃、姉川の合戦の功により湖北三郡を与えられた羽柴秀吉が入城し、地名も この頃に今浜から長浜に改められた。秀吉が初めて領主として自ら築いた城としても有名。 その後、秀吉の家臣である山内一豊や江戸期には徳川家の家臣の内藤信成などが入城したが、 元和元年(1615)に廃城となった。 建物および石垣の大半は彦根城の築城に際して移されてしまい遺構は少ないが、 彦根城の天秤櫓や三重の隅櫓は長浜城のものと言われている。
【模擬天守】
鉄筋コンクリで作られた初期の頃の天守を模して造られた3層の摸擬天守で、 中は歴史博物館となっている。天守台の石垣も模擬天守を建てる際に築かれたものと思われるが、 西側の一部には当時の石垣が残っているらしい。
【豊公園】
城域の中心部があった場所は現在豊公園となっており、部分的に発掘調査も行われている。 現在は市の指定文化財として指定されている。
【本丸】
豊公園内、模擬天守の東側には本丸跡の石碑が建てられているが、全体の縄張りや 細部の構造については分かっていない。
【堀跡】
豊公園の北側の入口付近に建つ内堀跡の石碑。この辺りには琵琶湖の湖水を引き込んだ 内堀があったと思われる。
【境界線】
長浜は秀吉によって町屋敷の年後米三百石を納める事を免ぜられており、この特権が 徳川幕府にも認められ、他の地域との境界線に石碑が建てられた。江戸時代の初期に 建てられた頃は30本以上会ったと言われているが、現在は10本あまりしかない。 この石碑は『これより東 長浜領、これより南 長浜領』と書いてある事から、 町の西北隅に建っていたと思われる。
【太閤井戸】
琵琶湖の湖岸にある太閤井戸。この時は琵琶湖の水位が高かったのか、湖畔ギリギリのところに 石碑建っていた。これは井戸の意味があったのだろうか?そもそも琵琶湖の水では?と言う気もするが。