大津城
豊臣政権になり、琵琶湖の水運の要所としてこの地域の重要性が高まってきた事から、坂本城に代わる城として天正14年(1586)年頃に秀吉によって築かれた琵琶湖畔の水城。浅野長政、増田長盛などの五奉行となる重臣が城主を努めるなど、重要視された。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦の際、当時の城主だった京極高次は当初は西軍に従軍していたが、途中から東軍につき、合戦当日まで西軍の大軍を引き付け、関ヶ原合戦の勝敗を大きく左右したと言われており、また関ヶ原の戦後処理もこの城で行われている。しかし、防御上の弱点があった事などもあり、関ヶ原の翌年には近くに膳所城が築かれ、大津城は廃城となった。多くの建物は膳所城や彦根城の資材に転用され、四層五階と伝わる天守は彦根城に移築されたと言われている。その後、江戸時代を通じて東海道五十三次の最大級の宿場町として繁栄した事もあり、現在は遺構は煙滅している。
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石碑・堀跡
【石碑】 |
大津城縄張に関しては、古絵図などの当時の資料がなく、正確な事は分かっていないが、廃城後に描かれた江戸時代の絵図などによると、現在石碑が建てられている場所あたりに本丸があったと考えられている。本丸跡からは石垣や礎石建物跡などが発見され、土器類や金箔瓦なども出土している。また、本丸には四層五階の望楼型天守が建てられていたと言われている。
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【水堀跡】 |
三井寺駅北側の琵琶湖第一疎水が当時の西側の外堀のあたりと思われる。遺構が全く残っていないのは残念だが、東西約700m、南北約600mとあるので、かなりの規模だったと思われる。
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