膳所城
関ヶ原の翌年の慶長6年(1601)に大津城に代わる城として、東悔道と琵琶湖の湖上交通を押さえる重要な場所に築かれた水城。徳川家康の命により天下普請で築かれた最初の城とされ、築城の名手と言われる藤堂高虎による縄張りは、本丸と二の丸が完全に琵琶湖上に独立する堅固な造りになっていた。しかし、寛文2年(1662)の地震により、多くの建物が崩れ、縄張りも大きく変わった。戸田・本多・菅沼・石川など、譜代大名が次々と城主を務めたが、慶安4年(1651)に本多俊次が入城してからは明治まで代々本多氏の藩政が続いた。明治期になると維持管理の困窮するようになり、明治3年(1870)に『無用の長物』として全国に先駆けて明治政府に廃城願いが出され、全ての建物が解体・移築された。現在は、膳所公園となっている本丸跡に一部の石垣が残るのみで、日本三大湖城にも数えられた城の姿は跡形もなくなってしまったが、この時に移築された門や櫓が、現在も城下に多く残っている。
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膳所公園
【膳所公園】 |
当時の本丸跡は現在膳所公園となっている。遺構は殆ど残っていないが、琵琶湖に突き出した地形は、ほぼ当時のまま残っている。地元では、現在もこの公園は『御本丸』と呼ばれているらしい。
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【公園表門】 |
膳所公園の入口に建てられ、公園のシンボル的な建物となっている表門だが、これは実は模擬。市内の色々な場所に門を移築しているのに、本丸跡の公園に当時の門がないのは少々寂しい感じ。明治期に判断早く払い下げ過ぎだろうとも思うが、当時は公園化なんて考えていなかっただろうし、仕方ないところ。
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【石垣跡】 |
膳所公園の湖畔には、当時のものと思われる石垣の石材が転がっている。一つ一つの石がかなり大きい。流石は天下普請の城。今は見る影もないが、当時は立派な城だったことだろう。
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【天守跡】 |
本丸の北側には四層の天守が建てられていた。現在は跡形もなく、『天守閣跡』石碑が建てられているのみ。古絵図によると、天守の他に、複数の三重櫓、二重櫓も建てられていた事が分かる。
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【天守跡】 |
本丸の南側には二の丸が設けられていた。現在城郭風の建物が建てられている辺りが当時の二の丸だろう。当時の木橋を連想させるような橋が架けられているが、当時本丸と二の丸の間は廊下橋が架けられていたらしい。
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【天守跡】 |
膳所公園から見た瀬田の唐橋と近江大橋。瀬田の『唐橋を制するものは天下を制する』とまで言われた要衝で、膳所城はここを押さえる目的で築かれた。現在は、膳所公園のすぐ横に近江大橋が架けられ、当時も今もここが交通の要衝である事が分かる。
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移築建物
【膳所神社表門】 |
膳所神社の表門は、二の丸と本丸との間にあった大手門を移築したものと伝えられている。格式の高い脇戸付きの薬医門で、明暦元年(1655)に造られ、明治4年(1871)に移築されたとされているが、複数回の改築跡が見られることから、大津城から移築された城門だった可能性もあるらしい。ちなみに、大津城には坂本城の資材も使われているので、もしかしたら、坂本城の資材の可能性も?現在は重要文化財に指定されている。
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【膳所神社北門】 |
膳所神社の北門は少し目立たないところにあるが、こちらも移築門。
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【篠津神社表門】 |
篠津神社の表門は、北大手門を明治5年(1872)に移築したものらしい。鉄板を張りつけた堅固な高麗門で、屋根には藩主本多氏の家紋である「立葵紋」の丸瓦が使われている。こちらも重要文化財に指定されている。
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【若宮八幡】 |
若宮八幡表門の高麗門は、本丸の犬走門と伝えられている。犬走門は建築当初の慶長期に建てられ、寛文2年(1665)大地震後に再建されている。近年の解体修理で、当初の形式に復元されたとの事で、こうなると、何をもって移築門というのかちょっと良く分からなくなってくる。古材を用いていれば、移築と言うことなのだろうけど。現在は大津市の指定文化財に指定されている。
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【響忍寺長屋門】 |
城下の響忍寺は膳所藩の家老の屋敷跡で、現在も当時の長屋門が残っている。
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【和田神社表門】 |
和田神社の表門は、文化5年(1808)創設の膳所藩校の門を移築したもの。他の移築された城門と比べると、流石にやや簡素な感じ。
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【和田神社 銀杏】 |
和田神社の神木ともなっている大銀杏の樹齢は約600年と推定されており、関ヶ原で敗北して捕らわれた石田三成が、京都へ護送される途中につながれてたと伝えられている。大津市の天然記念物に指定されているらしい。
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【芭蕉会館】 |
茶臼山公園にある芭蕉会館は、本丸東中央に建てられていた二重櫓を移築したもの。一時期は城下の料亭の建物として使われていたらしい。木々に覆われて、全体を見渡しにくいのが少々残念。
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