Japanese Castle

深沢城

 今川氏により永正年間(1504~1521)頃に築かれたのが始まりと考えられる。甲斐・相模・駿河国境に位置する境目の城として重要視され、今川氏滅亡後も北条氏と武田氏との間で争奪戦が繰り返された。その間、北条綱成が城将として守る深沢城に無血開城を迫る武田信玄が放った『深沢城矢文』は有名。この時、信玄方は金堀衆を動員して本丸近くまで掘り崩したらしく、綱成は開城して撤退し、以降武田方の拠点となった。現在見られる丸馬出しや三日月堀などの遺構はこの頃に造られたものと思われる。1582年に武田氏が滅亡すると深沢城の将兵は逃亡し、その後は徳川家の支配下となり、1590年、豊臣秀吉の小田原攻め後は役割を終えて廃城となった。

大手~三の丸

【深沢城石碑】
 大手に建つ『深澤城址』の石碑。深沢城に駐車場はないが、この石碑の近辺に1~2台ほど駐車できるスペースがある。
【三の丸南側空堀】
 石碑の背後に残る三の丸の空堀。やや藪になっているが、それなりの規模の堀だったことが分かる。
【三の丸馬出し】
 石碑の背後から三の丸に進むとまず見えてくるのが三の丸馬出し。馬出しとしては比較的大きな曲輪で、外側には僅かに土塁が残っている。

【三の丸空堀】
 三の丸と上記の馬出しとの間に掘られている空堀。だいぶ埋まってしまっている感はあるものの、形状ははっきりと分かる。
【三の丸】
 城域南側に位置する広大な三の丸。城の大手方面にあたり、周囲に3箇所の馬出しを設けている事からも守りの要となる曲輪だった事が分かる。現在、内部は畑地となっており、西側は道路によって分断されてしまっているが、その先にも三日月堀が残っている。
【三日月堀】
 三の丸の西側に残る三日月堀。他の空堀に比べて、ここだけやたら綺麗に整備されており、堀の形状が非常に分かりやすい。この辺りは基本私有地だと思うが、非常にありがたい。

三の丸~二の丸

【二の丸馬出し】
 三の丸から二の丸へ。周囲の空堀が藪となっていてやや分かりにくくはなっているが、土橋に丸馬出しが設けられているのが分かる。三の丸の馬出しに比べるとかなり規模は小さい。
【二の丸空堀】
 二の丸と三の丸との間の空堀。『二鶴様式の堀跡』との案内があったが、どういった形状を指すのだろう?初めて耳にする言葉。

二の丸

【二の丸】
 二の丸の南側半分は藪化しており、全貌が掴みにくいが、畑地となっている北側とあわせると、かなり広い曲輪。発掘調査の結果、本丸跡からは殆ど遺物が出てこなかったのに対して、二の丸からは遺構の他、陶磁器なども出土している事から、城の中枢はむしろこの二の丸だったとする見方もある。少なくとも、生活の中心的な場はこちらだったと思われる。

二の丸~本丸

【本丸馬出し】
 二の丸と本丸との間に設けられている丸馬出し。非常に見事に残っている。見る人によっては、この馬出しの向きによってどちらが中心的な曲輪かを判別しているようだが、正直なところ良く分からない。
【本丸空堀】
 本丸~二の丸の間の空堀。こちらもだいぶ藪になっている。

本丸

【本丸】
 城域の北側先端部に位置する本丸。140m×120m程あり、城内でもっとも広い曲輪となっている。二の丸と比べると一段低い場所に位置している事が分かる。この辺りも二の丸を城の中枢とみる理由の一つだろう。普段だったら、さほどこだわらないでもと言う気もするが、あの地黄八幡が本丸を残すのみとなるまで粘った場所なので、どちらの曲輪だったのか気になるところ。
【本丸周囲】
 本丸の西側直下には堀代わりとなる川が流れており、それなりに要害となっている事が分かる。
【本丸城櫓、袖曲輪】
 本丸には『城櫓』と『袖曲輪』の案内が建てられているが、いずれも痕跡がなく旧状が良く分からない。本丸のみならず、この城は全体的に土塁が殆ど見当たらない。削られてしまってたのだろうか?

その他

【曲輪跡】
 三の丸の東側の現在水田となっている場所も『城の前』と呼ばれる曲輪跡。数段に分かれており、横矢の名残りっぽい折れも見られる。
【信玄塚】
 城域の北の外れにある小高い丘のような信玄塚。信玄はここに本陣を置いて城攻めをしたと言われている。と言っても、信玄は何度か深沢城をを攻めているので、何次の侵攻の時かはよく分からない。毎回ここだった可能性もある。本陣を構えただけあり見晴らしは素晴らしい場所で、富士山も綺麗に見える。
【大雲院に移築された大手門】
 城下の大雲院に移築された大手門。大手のどのあたりに建てられていたのかは良く分からない。関東大震災時に倒壊し、その後昭和23年に復元再建されているとの事。立派な四足門だが、確かによく見ると、かなり頑張って修復してあることが分かる。
【十輪寺に移築された搦手門】
 城下の十輪寺に移築された搦手門。こちらも大手門同様どのあたりに建てられていたのか良く分からないが立派な門。