Japanese Castle

二俣城

二俣城について

 天竜川と二俣川との間の要衝に築かれた山城で、永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後に今川氏により築かれたと言われているが、それ以前からこの地域の重要や拠点として機能していたと思われる。信州・三河・遠州へと続く要衝に位置し、元亀3年(1572)には上洛を目指す武田信玄によって攻められ落城した記録が残っている。その後も武田氏と徳川氏との間で激しい攻防が続いた。天正3年(1575)に武田氏が長篠の戦いで敗北し、徳川氏の城となった。天正7年(1579)には、家康の長男、信康が生母の築山殿と共にこの城に幽閉され自刃した事で有名。家康の関東移封後は、堀尾氏が城主となり、この頃に現在見られる石垣などが整備されたものと思われる。関ヶ原以降は戦略拠点としての必要性がなくなり、廃城となった。
【駐車場~北郭】
 城域北側の駐車場から北郭に向かう。途中で本丸と北郭とを隔てる明瞭な掘切が見られる。案内板にも書かれていたので、間違いないだろう。
【北曲輪】
 独立した曲輪となっている北曲輪。南の本丸側とは掘切で分断されている。現在、曲輪内には神社が建てられている。
【本丸北側虎口】
 本丸の北側に設けられた喰違い虎口。大手は南側だったようで、こちらの虎口は規模が小さい。北郭への通用門のような感じだったのだろうか。
【本丸】
 標高90mの城山の頂部に位置する本丸跡。周囲には石垣が築かれ、東側には小規模な天守台が建てられている。
【天守台】
 高さは3m程と小規模ながら、この地域にしては珍しい堅固な野面積みの天守台が残っている。
【本丸南側虎口】
 本丸の南側、二の丸との間に設けられた虎口。枡形の周囲の石垣がしっかり残っている。こちらが大手だったようで、北虎口よりもかなり立派な造りになっている。
【二の丸】

 本丸の南側、一段下がったところに隣接する二の丸。全体的に藪に覆われているが、周囲の土塁が良く残っている。藪の中にひっそりと城山稲荷神社が建てられていた。
【二の丸虎口】

 二の丸の東側に設けられた虎口。当時は北曲輪~本丸の東側を通り、この虎口から二の丸を経て本丸へと至るのが大手だったらしい。さすがに立派な石垣が築かれている。
【二の丸~蔵屋敷】

 二の丸の南側、蔵屋敷との間に残る明瞭な掘切。二の丸側との高低差は6m~7m程ある規模の大きなもの。ここにもちゃんと案内板がある。
【蔵屋敷】
 二の丸と掘切を隔てた南側に位置する蔵屋敷。蔵屋敷以下は基本的に土の城っぽく見えたが、この曲輪の南側には、石垣を伴う高さ2m程の土塁が残っていた。また、西側斜面にも一部に石垣が残っている。
【南曲輪】
 蔵屋敷の南側にも、掘切を隔てて南曲輪が続いている。現在は曲輪内は藪に覆われてしまっているが、周囲の土塁が僅かに残っている。
【清瀧寺】
 城域の北側山麓に位置する清瀧寺。切腹した信康供養のために家康によって建てられた。境内には信康の墓の他、大久保忠世の墓なども建てられている。
【信康の墓】
 清瀧寺にある徳川家康の長男、信康の墓。信康は母築山御前と共に、武田との内通の容疑をかけられ、二俣城で幽閉された後、21歳の若さで切腹させられた。織田信長の要求とされているが、本当のところは怪しい。
【大久保忠世の墓】
 信康切腹時に二俣城城主だった大久保忠世の墓も信康の墓の横に建てられている。城主だった割には、信康の墓と比べると、かなり寂しい。
【井戸櫓】
 清瀧寺には井戸櫓が再現されている。崖下の水を汲む珍しい井戸だったらしい。当時は二俣城に井戸櫓があり、籠城時にはそこから天竜川の水を汲んでいたが、武田信玄がこの城を攻略した際には、木材を流して井戸櫓を破壊して水の手を断って攻略したと言われている。