浜松城


【天守】


【埋門跡】


【八幡台跡】
 天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高く、浜松城の中で最も高い(41.9m)面積は約40m2。城を守る神社 (八幡大菩薩)を祀った場所だと言われる。八幡大菩薩は武士の守り神として信仰された。


【井戸跡】
 この井戸は銀明水とよばれていたという。浜松城には、天守台に1つ、天守曲輪の埋門のそばに1つ、本丸に1つ、 二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計10本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。 直径1.3m 深さは現在1mほどになっており、水はない。


【門跡】


【天守門跡】


【天守内部 穴蔵 井戸跡】
 天守台には穴蔵と呼ばれる地階があり、その中央部には石組井戸がある。石組井戸とは穴のまわりを、石を積んで崩れないように したもので、この時代、他の城郭にも多く見られる。浜松城の他に名古屋城、松江城なごにも天守穴蔵に井戸がある。 井戸は、城内に住む人々の飲料水として、また戦いの時には籠城になることも想定し、最後の拠点として天守内部や、天守の間近に 設けられることがあった。 浜松城には天守台の穴蔵、天守曲輪の埋門そば、本丸に各1、二の丸に3、作左曲輪に 4、計10本の井戸、清水曲輪にわき水があったといいます。天守台の井戸は、再建の時に 残し今の天守閣の地下室にあります。直径1.3メートル、深さ1メートルほどで、底は 砂利や砕石を敷き詰めています。もちろん、今は水がありません。戦国時代、城の水利は 極秘だったため、浜松城の場合も資料がなく、詳しいことは分かりません。


【天守曲輪】
 丘陵の西の端の最も高いところにあり、北東と南東の方向にはり出した菱形(東西56m、南北68m)に近い形をしている。 周囲は低い土塁があり、その下に石垣をめぐらしている。東に天守門、西に埋門があり、内部は広場となっていた。 家康公手植えのみかん  このみかんの木は、家康が職を退いて駿府城に隠居したおり、紀州(和歌山県)より献上の鉢植えのみかんを本丸天守閣下の 「紅葉山庭園」に家康公自ら移植したものと伝えられており、その木から接木したもの。 鎌倉時代に中国から入ったみかん(紀州みかん)の一種で、香りが強く種のある小型の実を結ぶのが特徴。


【天守台石垣】
 浜松城の石垣は、自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積みです。表面に すき間があり一見崩れやすそうに見えますが、奥が深く内側に小石や砂利を詰め てあるため、水はけもよく堅固です。 浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の珪岩で浜名湖や佐鳴湖など水路を 使って運ばれました。江戸時代初期以前まではよくこの方法が用いられ、現存する 石垣としては、彦根城、竹田城、そして安土城にも用いられていたと言われています。


【本丸〜天守曲輪】


【腰曲輪】


【本丸】
 普通の城は天守閣をとり囲むように本丸が配置されているが、浜松城の場合は天守閣の東約17m下につくられた。 周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。北には富士見櫓、南東の隅に二層の菱櫓があった。本丸内の建物に ついての詳しいことはわかっていない。現在は若き日の家康の銅像が建っている。


【二ノ丸】
 本丸の東に位置し、かつては城主の館と政庁があり、江戸時代を通じて藩の政治の中心だった。 5000m2あり、表御殿、奥御殿などの多くの部屋があった。現在は市役所と小学校の体育館が建てられている。


【清水曲輪】


【庭園】
 天守と作左山の谷間を利用し、深山渓谷を表現した廻遊式の庭園てす。


【作左曲輪】
 浜松城では、天守曲輪の他、清水・西端城作左の3つの曲輪がありまげ した。作左曲輪の由来は、譜代家臣の本本多左衛門重次が構築したからと言われている。


【鎧掛松】
 元亀三年(一五七二)家康は三方原の合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだ。そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、 鎧掛松と呼ばれている。この松は昭和五十六年に元城町の人々の手により植樹された三代目。初代は浜松城内の堀の近くにあった。 また、当時鎧掛松近くの清水で合戦により疲れた馬のからだを冷やしたところは、馬冷と言い、今もその地名が松城町内に残っている。 三方ヶ原の合戦より帰城した家康が鎧を脱いで松の枝に掛けたと伝えられている。


【東照宮(引馬古城跡)】
浜松城の前身引間城跡、日光、久能山と同じく家康(権現様)を祭るお宮。


【東照宮】