井伊谷城
井伊谷城について
国人領主として古くからこの地を治めていた井伊氏によって築かれた山城。比高30m程の独立丘の山頂周囲を土塁で囲んだだけの簡単な造りで、
あまり技巧的な遺構は見られない。と言うのも本城は三岳城で、ここは平時の居館程度のものだったらしい。南北朝期には後醍醐天皇の皇子(宗良親王)
を迎えて南朝方の拠点となった時期もあり、江戸期には『御所の丸』とも呼ばれていた。
大河ドラマの影響で登城路が舗装されたり、看板が沢山立てられたりしていたが、城山自体は閑散としていた。
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【居館跡】 |
井伊谷城自体が本城を三岳城とする平時の居館跡らしいが、一応は比高30m程のそこそこの山。
城山の南側山麓、現在駐車場になっている場所周辺が実際の井伊氏の居館があった場所と推定されている。
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【登城路】 |
南側からの舗装された登城路を上る。この程度の山城で登城路が舗装されているのは珍しいが、これも井伊直虎の大河ドラマを受けての事だろう。
この舗装は山頂まで続いている。途中、腰曲輪のような平場や土塁も見られたが、遺構かどうかは分からない。
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【主郭部】 |
これと言った遺構は見られないまま山頂の主郭部へ。北側半分は自然地形のまま、南側半分が削平されており、それなりの広さはあるが、
周囲を土塁で囲まれているほかは、特に技巧的な造りも見られない。地方の土豪の城はこの程度だったのかもしれないが、正直、少々物足りない感じ。
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【主郭部周囲の土塁】 |
主郭部周囲の土塁。高さ2m程の土塁で、この辺りが唯一と言って良い城らしい遺構。山頂部の館周辺を土塁で囲んだだけの城といった感じ。
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【虎口跡】 |
虎口は南と西に一ヶ所ずつ設けられており、南が大手、西が搦手だったらしい。大手側の虎口の両側には
やや高めの土塁が見られるが、それ以外は特に技巧的な造りは見られない。特に西側は、だいぶ改変されているように見える。
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【御所の丸】 |
主郭部の北側の一段高くなった場所は御所の丸と呼ばれている。江戸時代の記録によると、この城は『御所の丸』となっているらしい。
南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子を擁した場所と言われているが、本当にこんな自然地形のままの場所に
御所が建てられていたのだろうか?
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【主郭からの眺め】 |
主郭部の比高は30m程だが、周囲に高い山もなく井伊谷を一望できる。
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【龍潭寺】 |
城下に残る臨済宗龍潭寺。井伊氏の菩提寺であり、井伊直政の出生の地の石碑も建てられている井伊氏にとってゆかりのある寺。
この寺の歴史は古く、天平5年(733)まで遡るらしい。井伊谷城の砦としての役割もあり、それっぽい造りも随所に見られる。
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【龍潭寺 井伊氏歴代墓所】 |
龍潭寺の本堂裏手にある井伊氏の歴代墓所。井伊氏の歴史は古く、平安時代から遠江の国人領主としてこの地方を治めてきており、
徳川四天王で有名な直政は24代だったらしい。主君の家康よりも由緒正しい家柄に思える。
ちなみに、写真の井伊氏の墓所でも、立派な二つの墓石はそれぞれ始祖共保と22代直盛のもので、直政の五輪塔墓石は末席。
中興の祖なのに・・・
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【共保出生の井戸】 |
龍潭寺近くにある共保公出生の井戸。この井戸の横に生えていた橘の木から、井伊氏の家紋が橘になり、『井』が旗印となった。
井伊氏の聖地として歴代彦根藩主により繰り返し整備され続けてきた。この辺りは大河ドラマの影響で盛り上がっていた。
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【井伊直虎の手紙】 |
井伊谷城の南側山麓は、今回の大河ドラマに合わせて資料館が出来ており、井伊直虎の手紙が展示されていた。
大河ドラマの影響ってつくづくすごいなぁ。
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