掛川城 天守丸・本丸



【本丸跡】
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 城の主要部で当時は本丸御殿が建てられていた。発掘調査の結果、明確な建物跡は 分からなかったものの、柱穴、礎石や便所として使われた素堀りの穴などが見つかったらしい。 茶碗、中国製の陶磁器なども見つかっており、生活の場としても使われていた事が分かっている。 また、城が築かれる以前は墓地だった事が分かっている。

【本丸門跡】
image-1 image-1  本丸の東に位置する本丸門跡。両側の石垣が残っており、この石垣上に櫓門のようなものが 建てられていたと思われる。

【太鼓櫓】
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 正保城絵図では荒和布櫓と呼ばれる見張りの櫓があった場所。 現在建てられている太鼓櫓は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられたもので、 何回かの移築された後、昭和30年に三の丸から移築された。


【本丸〜天守丸】
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 本丸から天守丸への登城路は、敵の侵入に備えて何度も折り曲げられた狭い階段になっている。 また、発掘調査の結果、玉石積みの石垣と側溝が見つかっており、当時の石を生かして階段や側溝が 復元されている。

【腰櫓台跡】
image-1 image-1  本丸から天守丸への登城路の途中には、広い範囲が見渡せる腰櫓が建てられていた。 腰櫓に登る石段も見つかっている。

【天守下門跡】
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 天守丸の入口に位置する門で、二層の櫓門が建てられていた。基壇部の石垣が見つかっている。


【天守丸】
image-1  現在天守が建てられている天守丸は城山山頂に位置し、本丸よりも一段高い。 天正18年(1590)に山内一豊が入城する以前は本丸として使われていたが、 一豊により城域が拡張された際に、天守閣をが築かれ独立した曲輪となった。

【天守丸 霧吹き井戸】
image-1  城内最高所である天守丸に残る井戸。永禄12年(1569)、徳川家康が掛川城に籠もる今川氏真を攻めた際、 この井戸から霧が立ちこめ、城を守ったというありがちな伝説がある。


【天守台石垣】
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 天守台の石垣は、もとからあった良好な石だけを選別して南面に積み直し、 それ以外の部分は愛知県幡豆町の花崗岩を用いて復元されている。 確かに南面とそれ以外の部分で石が違う事が分かる。

【復元天守】
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 慶長元年(1596)に山内一豊によって建てられたが、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、 そのまま取り壊された。現在見られる天守は平成6年に国内初めての本格木造天守として 復元されたもので、古絵図や山内一豊が掛川城を模して建てたと言われる 高知城の現存天守などを参考に建てられた。

【石落とし・剣塀】
image-1  復元天守には石落としの他、忍び返しと言われる剣塀も再現されている。

【復元天守内部】
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image-1  三層四階の付櫓が設けられた天守で、6間×5間(約12m×10m)とさほど大きくは無い。 弘前城や中尊寺金色堂に使われている青森ヒバの大木などを用いて建てられている


【天守丸東側】
image-1 image-1  天守丸の東側の中程には当時は腰郭があり、塩櫓や銭櫓などが建てられていたらしいが、現在は 削られて犬走り状の細い通路となっている。