蒲原城



【蒲原城跡】
image-1  築城時期は定かでは無いが、室町時代の初め頃に蒲原氏の城として築かれたと思われる。 戦国期は今川氏領国の東の拠点として機能したが、義元が討死にして今川氏が没落すると、 北条氏が入った。永禄11年(1568)三国同盟を破棄した武田信玄に攻め落とされ、 千とも言われる城兵は一人残らず討ち死にしたと言われている。 その後、山県昌景が城主となり武田氏の城なったが、天正10年(1582)織田・徳川勢の 駿河侵攻で落城し、天正18年(1590)小田原征伐の際の徳川勢の着陣を最後に廃城となった。


【東曲輪〜搦手】
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 城域の東側が当時の搦手。車道を挟んで公園となっている辺りに東曲輪があったと思われる。 武田信玄がこの城を攻めた際、大手方面に陽動し、搦手であるこちらから武田勝頼が率いる伏兵が 攻め入り、落としたと言われている。

【大空堀】
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 堀の深さ以上に高い木々が茂った藪となっているため、深さを実感できないが、 かなり規模の大きな空堀。空堀横では搦手道は土橋状になっているが、 これも藪で分かりにくい。

【搦手虎口】
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 土橋を渡った所にある虎口跡。虎口を形成する土塁上には櫓のような物が立てられていたと思われる。

【搦手石垣】
image-1 image-1  搦手の所々に当時のものと思われる石垣が見られる。


【腰郭】
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image-1  搦手を抜けると、善福寺曲輪を取り巻く腰曲輪に出る。傾斜のある未完成のような曲輪に見えるが、 周囲を低い土塁で囲まれ、一部には石垣も残っている。


【善福寺曲輪】
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 本郭の北曲輪にあたる善福寺曲輪。ここから本郭への連絡路は無く、行き止まりの曲輪。 武田氏駿河侵攻の際の攻城戦では、このあたりで激しい戦いがあったと考えられている。 現在は、怪しい物見台や逆茂木などが再現されている。


【堀切】
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 本郭と善福寺曲輪とを隔てる堀切。幅7〜8mにおよび岩盤をくり抜いて掘られた堀切で、 本郭側と善福寺曲輪側の高低差も大きい。この堀底からは磁器片や炭化物などが出土している。


【本郭】
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 城山最高所に位置する本郭。善福寺曲輪を本郭北曲輪とし、こちらを本郭南曲輪とする場合もある。 中世山城としてはかなり広い曲輪で、周囲には腰郭が残っている。

【南虎口】
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 本郭の南側、現在の遊歩道の柵を越えた場所には、石垣や数段に渡る削平地が見られる。 構造はいまいち分かりにくいものの、虎口遺構らしく、当時は大手からこの虎口を通り 本郭に続く大手道があったものと思われる。


【出曲輪】
image-1  城域の東側、車道を挟んだ反対側にある小山も出曲輪として機能していたらしい。


【大手】
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 城域の南側の大手方面。大手曲輪や二ノ郭、三ノ郭があったらしく、現在も多くの削平地が見られるが、 一面が畑地になっており、曲輪の同定は難しかった。