葛山城
小田原の大森氏と共に、この地域の有力な氏族だった葛山氏の本拠城。葛山氏は藤原氏の末裔で、鎌倉時代には御家人だったとあるので、かなり古くからこの一帯を治めていた。戦国期には今川氏の傘下に入っていたが、ある程度自立した国人衆だったらしく、北条氏とも関係を持ち、両属的立場を保っていた。永禄11年(1568)の武田信玄による駿河侵攻の際には武田方に領地を保証されたが、その後、当主は誅殺され信玄の六男信貞が葛山氏の名跡を継いで完全に武田の支配下となった。天正10年(1582)に武田氏が滅亡の際に信貞も自刃し、葛山も廃城となったと思われる。現在は、山麓に築かれた平時の居館跡と、山上の要害部の両方が残る貴重な遺構となっている。
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登城口~出曲輪
【仙年寺】 |
山麓の仙年寺。葛山氏の菩提寺でもあり、見るからに山麓の居館跡っぽい造りをしている。当初は西の山中に建てられていたが、移転してきたらしい。いずれにしても、城の一部として機能していたと思われる。
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【水堀跡】 |
仙年寺の駐車場付近は水堀だったらしく、当時の名残と思われる池が残っている。
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【葛山氏の墓】 |
仙年寺の裏手にある葛山氏の墓。門扉は江戸時代末期に造られたものらしいが、武田菱が刻まれている。葛山氏の最後の領主が武田氏だったからなのだろうが、半ば乗っ取られたようなもの。ここに埋葬されている歴代の葛山氏直系城主からすると、この武田菱は微妙だろうな?
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【登城路】 |
仙年寺の裏手から山上に至る登城路が続いている。割となだらかな山で要害性は低い。仙年寺のあたりでしっかりと守っておく必要があっただろう。
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主要部
【主郭部東側掘切】 |
5分程で主要部の東側尾根を断ちきる二重の掘切一号堀と二号堀に至る。いずれも形の良い二重堀が見事に残っている。ここの掘切は東から順に一号堀、二号堀・・・と名付けられており、ここがその東端にあたる。
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【東側尾根】 |
上記の掘切の東側はなだらかな尾根が続いている。確かにこの尾根筋は断ちきらなければならなそう。
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【主郭南側空堀】 |
主郭部の南側の全域、約100mにわたって掘られている空堀。現在はだいぶ埋まっている感があり帯曲輪のように見えるが、当時は外側に土塁を詰んだ横堀で、堀底道として利用されていたものと考えられる。
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【主郭南側竪堀】 |
上記の空堀の途中にも、東西に一本ずつ竪堀が掘られている。東から順に三号堀と四号堀。
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【主郭部西側掘切】 |
堀底道を通り主郭部の西側へ。この方面にも五号堀、六号堀と巨大な二重掘切が残っている。東西の尾根をそれぞれ二重堀で断ちきって主郭部を守るという非常に分かりやすい構造。
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【西側尾根】 |
上記掘切の西側も尾根が続いている。この先にも水の手などがあるらしいが、藪のため断念。
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【二の丸】 |
主郭部に戻り、西側に設けられた虎口から二の丸へ。帯曲輪が少し広くなったような曲輪で、周囲にはしっかりと土塁が残っている。
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【帯曲輪】 |
本丸の周囲を取り巻くように設けられている帯曲輪。二の丸から南側の帯曲輪に続き、東側まで続いている。
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【主郭西側虎口】 |
案内板のルート通り、西側の登城路から主郭へ。虎口跡っぽい痕跡は見られないので、当時から本当にここに虎口があったかは良く分からないが、この辺りだけ二段になっている。出枡形みたいな感じになっていたのだろうか。
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【主郭】 |
尾根の最上部に位置する主郭。虎口が東西に設けられ、北側には土塁が残っている。
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【主郭の顔出し】 |
主郭に建てられている顔出し。基本的には一般客が来るような城跡ではないのに。頑張っている感じがちょっと嬉しい。
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【主郭東側虎口】 |
主郭東側の虎口。虎口の内側は僅かにくぼんでおり、内枡形のようになっているが、まぁ言われなければ気付かないレベル。
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【畝状竪堀】 |
主郭部の北側には5本の連続畝状竪堀が見事に残っている。唯一帯曲輪を設けていない北側をこの畝堀で守っている。それにしても、ここまで頑張っている竪堀はなかなか見られない。
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居館跡
【居館跡】 |
上記の城跡の南約300mの場所に残る居館跡。約100m四方の規模で、周囲には基底部の幅7mに及ぶ重厚な土塁が現在も残っている。当時は土塁の外側に堀が巡っていたらしく、現在も堀田という地名が残っている。中世豪族の方形館の典型として貴重であるのと同時に、平時の居館跡と山上の要害部の両方がセットで残る遺構としても重要。
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【居館虎口跡】 |
現在、出入口は北東隅と西側の二ヶ所があるが、そのうち北東隅と西側北については後世になって設けられてものらしく、当時の虎口は西側南の一ヶ所のみだったらしい。一番地味な虎口跡に見えたが、分からないものだ。
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【半田屋敷、荻田屋敷】 |
居館の西側は現在は私有地になっているため見学は出来ないが、こちらも重臣の屋敷地となっていたところで、半田屋敷、荻田屋敷と続いている。こちらも一部土塁が残っており、特に上空から見ると、居館跡である事が良く分かる。
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