興国寺城跡



【興国寺城跡】
image-1  長享元年(1487)に今川氏親からこの地を与えられた伊勢新九郎(北条早雲)により 築かれたと言われている。伊勢新九郎が伊豆に小田原へと侵出して行った後は今川家の城となったが、 天文年間には北条氏と今川氏との間でこの地域の奪い合いが繰り返され、この時期に大改修された。 永禄11年(1568)に甲相駿三国同盟が破棄されると北条氏の城となり、武田軍の攻撃も退けたが、 元亀2年(1571)に甲相和睦が結ばれると、武田氏の城となり穴山梅雪が城主となった。 天正11年(1582)武田氏の滅亡後は徳川の城となり、慶長12年(1607)城主の天野康景が改易となり 廃城となった。北条早雲が初めて城主となった城として有名で、現在は国の史跡に指定されている。


【本丸】
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1
 階段状に配された連郭式の最高所に位置する本丸跡。 南側の二ノ丸との間の土塁は残っていないが、それ以外の三方の土塁が見事に残っている。 特に北側の土塁は高さ10m以上に及ぶ巨大なもので、堀切とともに北側の舌状台地とを 完全に分断している。また、土塁上には天守や西櫓などが建てられていた。

【穂見神社】
image-1 image-1 image-1
 本丸北側の土塁の前には穂見神社が祀られ、その横に北条早雲と最後の城主となった 天野康景の石碑が建てられている。天野三郎兵衛康景は『どちへんなしの三郎兵衛』 と言われるほど公平な人物で、関ヶ原後に城主となったが、足軽をかばい城を棄て、 改易となった。

【天守台】
image-1 image-1 image-1
image-1  本丸北側の土塁の中央部に位置する天守台跡。石垣が積まれ、二棟の建物跡が見つかっており それらの礎石が残っている。


【本丸北側堀切】
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1
 本丸北側の北曲輪とを隔てる堀切。北側の舌状台地とを完全に分断する巨大な堀切で、 戦国期に拡張されたものと思われる。横矢もかけられている。


【北曲輪】
image-1  本丸の北に位置する北曲輪。北の舌状台地とを隔てる堀切も残っているらしいが 確認はしていない。あまり整備はされておらず、藪に覆われている。


【二ノ丸跡】
image-1 image-1 image-1
 本丸から一段下がった部分が二ノ丸跡。周囲の土塁や堀が残っていないため、 本丸や三ノ丸との境界ははっきりしないが、当時は土塁と空堀によって区切られていたらしい。 現在は駐車場となっている。


【三ノ丸跡】
image-1 image-1 image-1
image-1  二ノ丸からさらに南に一段下がった部分、現在は県道が通っている辺りが三ノ丸跡。 三ノ丸も当時は周囲を空堀と土塁で囲まれており、二ノ丸との間には枡形が設けられていた。 発掘調査が続けられているらしく、石垣などが露出していた。そのうち枡形あたりっが 復元されそうな予感。


【蓮池跡と清水曲輪】
image-1 image-1 image-1
 城域の東側には外堀の役割ををしていた蓮池があった場所で、現在も湿地帯となっており、 当時の名残を留めている。また、蓮池の東の高台は清水曲輪があった場所で、現在は茶畑になっている。


【城域西側】
image-1 image-1 image-1
 古図によると、城域の西側は『深田』となっており、泥田堀のような状態だったと思われる。 現在も一部水が溜まっている箇所があった。また、泥田堀の西側の高台も出城としての役割を 果たしていた。


【本法寺】
image-1 image-1 image-1
 城域西側の高台に位置する本法寺。当時は出城が築かれており本堂の裏手には土塁が残っている。 空堀も残っているらしいが、どれのことだか良く分からなかった。