【腰曲輪】 |
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北側の登城路を登り初めてすぐのところにある腰曲輪。櫓台のような土盛りが見られるが、 どのような遺構かいまいち良く分からない。この辺りは改変されているかもしれない。 |
【模擬大手門】 |
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北側の登城路を登り切ったところにある建てられている冠木門。 現在は南山麓の能満寺から上るルートが主流だが、当時はこちらが大手だったらしい。 |
【三重堀】 |
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西側の台地とを分断する三重堀。大きな堀切を一本掘れば済みそうにも思うが、厳重に三重堀が 掘られている。これぞ武田流と言うべきか。徳川勢に攻められ落城後、武田方の婦女子がここに 身を投げたと言われており、それ以来赤い唇のヒルが住むようになったという言い伝えがある。 現在は身投げしても普通に助かってしまいそうな深さなので、当時はもっと深かったものと思われる。 |
【勘助井戸】 |
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三重堀の北側に掘られた勘助井戸。現地解説版によると『勘助の声がかかっている』との事だが、 勘助が掘らせたという事だろうか?ここを修築したのは馬場美濃だったと思うが・・・ |
【供養塔】 |
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勘助井戸の近くにある供養塔。武田と徳川との間で激しい戦いが繰り返されたので、 多くの犠牲者がでたものと思われる。 |
【馬出し】 |
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三重堀の南側には土橋や馬出し状のような遺構など、小規模で入り組んだ遺構が残っている。 |
【城域西側】 |
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小山城は舌状台地の先端に築かれており、三方は比高20m近い崖に囲まれているが、 西側のみ高台が続いている。三重堀はこの方向からの攻撃に備えるために厳重に掘られている。 |
【三重堀〜二の曲輪】 |
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三重堀と二ノ丸との間は小曲輪になっており、二ノ丸との間には空堀が掘られ、 三重堀側には低い土塁が残っている。三重堀に比べると、あまりに小規模。 |
【復元天守】 |
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二の曲輪には鉄筋コンクリートの犬山城を模した天守が建てられており、 小山城のシンボルとなっている。中には武田氏関連の物が展示され、 最上階は展望台となっているらしい。 |
【復元土塀】 |
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模擬天守周囲の模擬土塀の狭間。復元では無いので、当時の遺構に似せる気は全くなかった様子。 それにしても、もう少しそれらしく造れなかったかな? |
【復元馬出】 |
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一の曲輪と二の曲輪との間の馬出しが復元されている。畑になって埋められていたが、 古図に基づいて復元されたものらしい。どの程度旧状が反映されているのかは良く分からないが、 これはこれで分かりやすい。どうせなら門なども再現されていると面白いかもしれない。 |
【一の曲輪空堀】 |
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一の曲輪と二の曲輪とを隔てる深さ3mの空堀。この空堀もどこまでが旧状どおりかは分からない。 南側でクランクして東側へと続いている。 |
【一の曲輪】 |
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舌状台地の先端に位置する本丸跡。周囲は高さ20m程の断崖に囲まれている。 一部に僅かに土塁が見られるが復元っぽい。 |
【虚空蔵尊】 |
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一の曲輪の南側一段下がったところに位置する虚空蔵尊。この辺りは腰郭だったと思われる。 南側山麓の能満寺から直上するとこの曲輪に出る。 |
【能満寺】 |
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南側山麓の能満寺。この境内も曲輪の一つだったと思われる。また、ここにある蘇鉄は 長徳元年(995)安倍晴明が中国から持ち帰り植えたものとされており、日本三大蘇鉄に数えられ、 天然記念物に指定されている。徳川家康が気に入って駿府城内に移し替えたところ、 夜ごとに「寺へ帰りたい」と泣き、再び寺に戻されたという伝説が残ってる。 |
【湯日川】 |
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城域の北側を流れる湯日川。外堀の役割を果たしていた。 |