Japanese Castle

久能山城

 現在は久能山城東照宮として有名な久能山だが、家康によって東照宮が建てられる以前から寺や城として利用されてきた。古くは平安時代初期に寺が開創され、戦国期になると、花倉の乱(1536)の際などには兵が籠もる寺院城郭のような形で利用された。永禄2年(1569)に武田信玄が侵攻し、本格的な山城が築かれ武田三名城の1つとも言われたらしいので、それなりに立派な城だったと思われる。天正10年(1582)に武田氏が滅亡後すると徳川氏の城となり、その後、元和2年(1616)家康が駿府で亡くなると、遺言によってここに東照宮が建てられ埋葬された。現在は東照宮の14棟が国宝・重要文化財に指定されている。

久能山城主要部

【登城路】
 久能山には北側の日本平からロープウェイに乗るルートと、南側山麓から階段で登る2つのルートがある。今回は南側の山麓から階段で登る事にした。山麓には鳥居があり、この階段は久能山東照宮の表参道らしい。要害地形を感じながら、1159段の石段を登るが、なだらかなので、見た目ほどキツくはない。

【一の門】
 上記の石段を登ると一の門に至る。両側を石垣に囲まれた城門で、この辺りが最も城っぽい雰囲気。
【一の門~二ノ丸】
 一の門から二ノ丸へ。流石に東照宮の参道だけあり、立派な石畳の道が続く。
【曲輪跡】
 登城路途中の石垣に虎口跡が残っており、この上の曲輪跡には現在博物館関係の建物が建てられている。山上にしてはかなり広い曲輪。
【勘助井戸】
 上記の曲輪跡には勘助が掘ったとされる勘助井戸が残っている。徳川一色の久能山の中、唯一武田氏時代のの名残っぽいものがあって嬉しいが、武田勢が駿河に侵攻したのは永禄2年(1569)、勘助が死亡したとされる川中島合戦(1561)よりだいぶ後の気がするが、この辺りはあまり触れてはいけないのだろう。信玄が行ってないはずの設楽ヶ原にも信玄塚があったし。
【博物館】
 勘助井戸のある曲輪跡の一段上にの曲輪跡には博物館が建てられている。いつの時代に造成されたのかは分からないが、こうして見ると、結構居住スペースが広い。ちなみに、博物館は徳川家の貴重な品が多く展示されている。
【二ノ丸跡】
 ロープウェイ駅となっているあたりが当時の二ノ丸跡。駅のあたりが小高くなっており、周囲を除くと中世城郭っぽい雰囲気も感じられる。
【二ノ丸~本丸】
 二の丸跡から楼門を通り本丸があった本殿へ。途中、建物や門のひとつひとつがかなり立派な感じだが、城の遺構とはあまり関係が無さそうなので、ここは一気にとばす。
【天水鉢】
 途中にあった巨大な手水鉢と思ったら防災用に水を溜めている天水鉢というものらしい。立派な葵の御紋。いたる所にこの紋が刻まれている。
【本殿】
 本丸跡に建てられている本殿。この本殿も当然のように国宝。本殿にもしつこいくらい一つ一つに葵の紋が描かれているが、一ヶ所だけ逆さになっているところがある。これは、完成後は朽ちるのみという考えがあり、あえて未完成な状態にしているとのこと。ちょっと面白い。
【神廟】
 本殿の脇から神廟へ。神廟は家康の遺骸を埋葬した場所で、本殿より一段高い場所に位置する。どちらかというと、こちらの方が本丸を奥には相応しい感じもする。一隅に家康の愛馬の墓も建てられている。
【土塁】
 城域の東端部の稲荷神社の背後は、どこまで当時のものかは分からないが、土塁のような地形も見られ、中世城郭っぽい雰囲気が漂っている。
【ヤマガラ】
 天水鉢に水を飲みに来るヤマガラ。観光客が多いせいか、ここのヤマガラは人に良く慣れている。