Japanese Castle

下田城

下田城について

 下田湾に張り出した半島に築かれた、北条氏の水軍の拠点となった城。天正16年(1588)に清水康英が城将となり、 秀吉の攻撃に備えて大改築された。天正18年(1590)に秀吉方水軍の脇坂安治、長宗我部元親、安国寺恵瓊ら一万を超える軍に攻められ、 たった600名程で約50日間籠城したが、その後開城した。現在は城山一帯が公園化されているが、掘切などが良く残っている。
【居館跡】
 北側山麓の現在開国広場となっている場所が居館跡。かなり広い。
【登城路】
 居館跡の南側に建てられている開国記念碑。この背後の斜面を直上したところがすぐ天守台跡だが、遊歩道沿いに東から回り込む。
【登城路】
 下田城は城域全体が公園化されており、登城路も舗装されていて上りやすいが、おかげでだいぶ遺構は壊されてしまっているのだろうな。
【北側堀切】
 と思いつつ上っていると、途中で北側尾根を断ちきる掘切を発見。形の良い掘切が明瞭に残っているが、 何の案内板もない上、遊歩道から外れたところにあるので、気をつけていないと見落としそうになる。 実際、必死に写真を撮っていると、何を撮っているのか周囲の人に不思議そうに見られた。
【馬場ヶ崎】
 北東には馬場ヶ崎と呼ばれている細い尾根が続く。天然地形に多少手を加えた感じなのだろうが、両側はかなり急峻。
【馬場ヶ崎堀切跡】
 この手の尾根にはあるはずの掘切が見当たらない。注意深く見ていると、尾根の付け根の辺りに 明らかに他とは違う土の部分が。場所的にもいかにも掘切が欲しい場所。恐らく公園化の際に埋められたのだろう。
【空堀跡】
 馬場ヶ先から戻り、尾根上を主郭部方面へ。途中、尾根の南側に降りてみると、屈曲した見事な空堀跡が残っている。 公園化されているものの、遊歩道を少しそれるとかなり遺構が残っている。
【腰曲輪】
 上記の空堀近くに見られる腰曲輪。写真以外にもいくつか削平された平場が見られる。
【鵜島城址石碑】
 主郭手前に建てられている鵜島城址の石碑。下田城は鵜島城とも呼ばれていた。
【主郭】
 空堀から一旦戻り『天守台跡』と呼ばれる主郭部。実際に天守が建てられていたかはかなり怪しいが、 実質上の本丸にあたる部分。山頂部を切り崩した感じの東西に長い曲輪で、あまり技巧的な造りは見られない。

【主郭西側】
 東西に長い主郭部の西側には、一段下がって小曲輪のようになっている部分がある。 この辺りも基本自然地形なのだろうが、陸側の物見台でもあったかもしれない。
【主郭東側】
 主郭の東側はかなりの急傾斜。下部には里見系城郭を彷彿させる、石の垂直断面があるが、 これは公園化の際に削られたものかな?
【主郭~2郭】
 主郭の南側、2曲輪との間を断ち切る見事な巨大掘切。主郭部側の高低差は10m以上ありそうな規模。 正直、舗装された公園でここまで見事な掘切が見れるとは思っていなかった。
【主郭~2郭 土橋】
 上記の掘切は堀底道となっており、掘切を抜けると空堀にかかる土橋に繋がっている。この土橋もかなり形良く残っている。
【主郭南側空堀】
 掘切から主郭の南側に回り込むと、北条系の城だけあり畝を伴う見事な空堀が見られる。畝も少なくとも3本ははっきり確認できる。 最初の遊歩道を見てあまり期待をしていなかっただけに、かなり感動。下田城すごいな。

【主郭南側】
 南側の畝堀から見た主郭。かなりの高低差。1万以上の軍勢を相手に600名で50日間も粘ったのも頷ける。 とは言っても、ここまでは攻められていないだろうけど。
【主郭南側虎口跡】
 上記の主郭南側の空堀横に設けられた虎口跡。場所的に少し違和感があるが、西側からの登城路が続いているので、 ここに門でも設けられていたのかな?
【主郭西側空堀】
 そのまま主郭の西側にも空堀が続いている。こちらも畝堀だったらしいが、現在は藪に覆われてしまっていて確認出来ない。
【北側腰郭】
 主郭の北側にも腰郭の跡と思われる平場が見られる。
【2郭】
 主郭から南西方面に続く尾根上に曲輪が続く。写真は主郭に隣接する2郭で、周囲には主郭同様空堀が残っている。 曲輪自体はあまり広くない。
【2郭空堀】
 2郭周囲の空堀。遊歩道の無い南側のみだが、見事な空堀が残っている。主郭の空堀ほど明瞭ではないものの、 こちらも畝っぽい筋が見られる。

【2郭~3郭 堀切】
 2郭と3郭との間の堀切。こちらも形良く残っている。何より、藪をかき分けなくても、 遊歩道を普通に歩いててもこれだけの以降を見れるというのがすごい。ま 結局は基本藪に入っているのだけど。
【3郭】
こちらが3郭。いずれも曲輪内の居住性には乏しいものの、周囲の空堀や切岸が見事。
【3郭~4郭 堀切】

そして連郭式に続く4郭との間を断ちきる掘切。いずれの掘切も見事。
【4郭から見た3郭】
 4郭と3郭との間は5~6mの高低差がある。なだらかに続く尾根を断ちきって掘切を掘り、削平して郭を造成していったのだろう。
【4郭】
 この辺りまでが、主郭部の郭としてはっきりと残っている部分。
【主郭部~東尾根】
 2郭くらいまで戻り、今度は東側エリアへ。現在、遊歩道で東側の尾根と分断されているが、 実際にこの辺りにも掘切が会った可能性が高い。
【東尾根】
 下田城は主郭部を中心に数本の尾根が続いており、明らかに掘切がありそうな東尾根を進んでみる。 途中、円形状の石積みが見られたが、井戸跡にしては大きすぎるような気がするし、土橋にしては場所が微妙。 何の遺構だろう?
【東尾根 掘切と土橋】
 この東尾根には結果4本の掘切があったが、上記の石組みの少し先に1本目の掘切が掘られている。 深さ4m~5m程度で、北側に削り残しの土橋がかかっている。
【東尾根 掘切2】
 圧巻の二本目の掘切。岩盤を垂直に10m以上掘り抜いた巨大な掘切で、里見氏系の城郭を思い起こさせる。 北側半分は崩落が進んでしまっているが、当時は一面垂直断崖だったのだろう。この尾根筋を守る最大の要所。
【東尾根 掘切3】
 上記の掘切2のすぐ先にある掘切3。一応ここでは掘切3としたが、掘切2との二重堀切と見た方が自然かもしれない。 こちらも岩盤をくり抜いた深さのある掘切で、削った痕跡がはっきりと見られる部分もある。

【東尾根 掘切4】
 その先の掘切4。現在鉄塔が建てられている場所で、鉄塔建設のために削平された可能性もあるが、 場所と形状から、ここも当時の掘切跡に見える。今までの掘切に比べるとかなり堀幅は広いので、多少手は加えられているかもしれない。
【西側尾根】
 一旦主郭部に戻り、今度は西側尾根伝いに下る。こちらの尾根沿いにも当時は畝堀が掘られていたらしいが、 現在は草が生い茂っていて分からない。当時はこちらもそこそこの要害だったのだろう。
【下田湾と犬走島】
 城域の東側に広がる下田湾と犬走島。犬走島とは、いかにも城と関係ありそうな名前だが、当時から水軍拠点として使われており、 船が繋がれていたらしい。
【下田城からの眺め】
 城の北側は、下田の街が一望できる。現在漁港となっているあたりは、当時は水軍の拠点として使われていたのだろうか。