駿府城跡



【駿府城跡】
image-1  三重の堀を持つ輪郭式の平城で、幼少期をこの地で暮らした徳川家康により、天正13年(1585)に築城された。 しかし、当時は現在見られる城跡よりも小規模だったと思われる。その後、天正18年(1590)家康は関東に移封され、 豊臣系の中村一氏が城主となった。関ヶ原の戦いの後、将軍職を退き、慶長12年(1607)に大御所として再度入城した。 この頃に天下普請により大幅に拡張修築され、本丸には五層七階の天守も建てられ、現在見られるような 輪郭式の壮大な城となり、江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていた。


【本丸跡】
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image-1  輪郭式縄張りの中心に位置する本丸跡。北東隅には五層七階の天守が建てられていた。 現在は公園として整備されており、家康の銅像や遺訓が建てられ、お手植えのみかんなどもある。 確かに、ここに住んでいた訳だから、みかんを植えていてもさほど不思議は無い。

【天守跡】
image-1  大御所徳川家康の居城にふさわしく、駿府城の本丸には五層七階の壮麗な天守閣が築かれ、 駿府城のシンボルとして、城下町からは富士山と並び立って見えたと伝えられている。 また、あまりに天守閣が光り輝き駿河湾の魚が怯えて漁師が困ったなどと大げさな言い伝えも 残っている。家康在城時に一度焼失し再建されたが、家康没後の寛永2年(1625年)に 再び火災によリ焼失し、以後再建されなかった。明治期まで天守台の石垣が残っていたが、 明治29年に静岡連隊を誘致する際、解体され埋められ現在は何も残っていない。。

【本丸堀】
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 本丸周囲を取り囲んでいた堀で、三重の堀の中で一番内側のもの。幅約23〜30mあり、 深さも当時は5m程あったと言われている。発掘調査により、打込み接ぎと算木積みで積まれた 石垣が見つかっており、一部が復元されている。


【ニノ丸 東喰違御門】
image-1  本丸南の玄関前御門の外側に設けられていた喰違門跡の石垣。二ノ丸部分には東西に石垣が築かれ、 敵が容易に進入できないよう区画されていた。当時は北から延びる土手との間に門が設けられていた。

【ニノ丸 水路】
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image-1  本丸堀の水をニノ丸堀へと流す目的で築かれた水路で幅は約4.5m、当時の深さは約4m、 長さは約95mあり、約2mの段差を設けて本丸堀の水位を保つようになっている。 また、防御を意識して途中4回折れ曲がり、両側には石垣が築かれている他、 底の部分も土砂が流されないよう、約50mにわたり石が敷かれている珍しい造りになっている。 この石垣の下方は築城当初の石垣と考えられている。

【二ノ丸東御門】
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 ニノ丸の東に位置する主要な虎口で、中堀に架かる東御門橋と高麗門、櫓門とその両側の多聞櫓で 堅固な桝形を構成していた。主に重臣たちの出入ロとして利用され、東御門の前が安藤帯刀の屋敷だった事から 『帯刀前御門』と呼ばれたり、また台所奉行の松下浄慶にちなんで『浄慶御門』などとも呼ばれた。 寛永12(1635)年に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失したが、3年後に再建された。   現在復元されている建物は、この寛永年間の再建時の姿を再現したもの。

【ニノ丸 巽櫓】
image-1  二ノ丸東南隅に位置する巽櫓。東御門に隣接し、東御門とともに復元されている。

【ニノ丸北御門跡】
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image-1  搦手にあたる門で、絵図の中には『不明』の門と記されるものがある事から、普段はあまり 使われなかったものと思われる。この方面には、本丸天守に直結する御天守台下御門があるため、 特に厳重な造りになっており、門を入り枡形状の区画を抜けるとすぐ西側には食い違いの 馬場先御門が設けられていた。北御門と馬場先御門を合わせて1つの門とする見方もある。

【ニノ丸清水御門跡】
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 ニノ丸の西側に位置する虎口で、中堀を木橋で渡り高麗門を抜け石垣で囲まれた桝形を 経て渡櫓門から二ノ丸へ入る構造になっていた。門の北側には西喰違御門があり、 本丸搦手側の御天守台下御門方向へは容易に進入できない仕組みになっていた。

【ニノ丸御門跡】
image-1  大手に当たる門で、二ノ丸大手門とも呼ばれていた。二ノ丸堀を木橋で渡って高麗門を通り、 石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸内へ入る構造になっていたが、昭和32年に埋められた。 他と比べて明らかに粗雑な石積みが見られ、埋められた門跡と分かる。

【現在の二ノ丸南虎口】
image-1  現在の二ノ丸南虎口。二ノ丸御門跡を埋め、東側に公園入口として趣の無い橋が設けられてしまっている。

【ニノ丸 坤櫓跡】
image-1  二ノ丸西南隅には当時坤櫓が建てられていた。現在は石垣のみが残っている。

【二ノ丸周囲の堀と石垣】
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 二ノ丸周囲の水堀は全周にわたり残っている。天下普請の城という事で、石垣の所々に刻印が見られる。


【三ノ丸 四足御門跡】
image-1 image-1  三ノ丸の南辺の西側に設けられた門で、東側の大手御門と並び、東海道筋へと通じる重要な門だった。 三ノ丸堀を土橋で渡り、左手へ直角に曲がり、渡櫓門から場内に入る構造になっており、 現在も石垣の一部が街中に残っている。

【三ノ丸 横内御門跡】
image-1  三ノ丸北東に設けられた門で、三ノ丸堀を木橋で渡り、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形を経て 渡櫓門から三ノ丸へ入る構造になっていた。現在、三ノ丸堀の東辺は商店街の下に埋没している。

【三ノ丸 草深門跡】
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 三ノ丸の北面に設けられた門。三ノ丸堀を木橋で渡り、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形を経て 渡櫓門から三ノ丸へ入る構造になっていた。現在も周囲の高い石垣が残っている。

【静岡学問所跡】
image-1  静岡地方合同庁舎付近に残る静岡学問所の碑。明治維新後、駿府に移ってきた徳川家(府中藩)により、 藩の人材養成を目的として、元定番屋敷内に明治元年(1868)『府中学問所』として創設され、 翌2年駿府が静岡に改められたことにより「静岡学問所」となった。 明治5年の学制の施行とともに閉鎖されたが、廃校後多くの人材が明治政府に登用された 当時の中等、高等教育の最高水準の学府だった。

【三ノ丸周囲の堀と石垣】
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 輪郭式の三重の堀の一番外側にあたる三ノ丸周囲の堀は、東側と南側の一部は埋められているが、 それ以外の部分は比較的良好に残っており、櫓台の石垣なども見られる。