高根城
高根城について
信濃から遠江へと抜ける街道(塩の道)をおさえる要衝に位置する山城で、室町期に北遠江の国人領主奥山氏によって築かれたのが始まりと言われている。永禄3年(1560)の桶狭間以降今川氏が没落した後は武田氏配下の城となり、この頃に遠江攻略の拠点として大改修されたものと思われる。実際に三方ヶ原に向かう際には武田軍本体の行軍ルートになった。天正3年(1575)長篠の戦いで武田軍が敗れた後は、この地域は徳川家の支配下となり、その頃に廃城となったものと考えられている。現在は発掘調査の結果に基づいて、小規模ながら強固な山城全域が復元整備されており、大河ドラマの撮影などにも使われている。
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【公園】 |
山麓から登城する事も出来るが、尾根伝いの南側まで車で行く事も出来る。今回は楽をして尾根伝いルートで。城域の南側部分は公園となっているが、落城寸前の危険すぎる遊具でとても遊べない状態。
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【二重堀】 |
尾根伝いに北上すると、最初に見えてくるのがこの尾根と城域とを分断する二重堀切。幅は約30m、深さは約9mに及ぶ巨大な掘切で、急角度の薬研堀の中央部には、これまた急角度の高さ4m程の土塁が設けられている。唯一の弱点となる尾根伝いルートを見事に守っている。
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【三の曲輪】 |
二重堀の東側に設けられた通路を通り三の曲輪へ。20m×5m程の南北に長い曲輪で、二重堀を見下ろす位置に設けられている。北側には櫓台のような土塁が見られるが、櫓なら二重堀のある南側に設けるのが普通な気がするので、二の曲輪との橋台のようなものだったのかもしれない。
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【三の曲輪~二の曲輪掘切】 |
三の曲輪と二の曲輪との間には、幅約10mの箱堀が岩盤を掘りぬいて設けられている。掘切の東端には岩盤を掘り残した幅1.5m程の土橋が設けられていた。
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【城内道】 |
三の曲輪から本曲輪方面へは、上記の土橋に続いて二の丸の東側の曲輪の下を通る通路があり、てっきり公園化の際に設けられたものかと思っていたが、実はこれは当時からの城内道の遺構らしい。なので、城外からは見られないよう街道に面さない東側に設けられていたらしい。このような道が完全に検出されているのは非常に珍しい。
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【二の曲輪】 |
三の郭とほぼ同規模の20m×5m程度の南北に長い曲輪。東側下の通路が一部小曲輪になっており、そこから梯子を使って出入りしていたと思われる。まぁ三の曲輪の北側の土塁が橋台ならば、三の曲輪と橋で繋がっていた事になる。
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【本曲輪下段虎口】 |
二の曲輪と本曲輪との間も幅約10mの掘切が掘られ、城内道も二の郭下段の小曲輪で一旦分断されている。この小曲輪と本曲輪の南側下段には設けられた小曲輪との間には木橋が架けられており、木橋を渡った場所には城門と柵があり、登城路は直角に曲げられる厳重な造りだった。確かに、通路を造るのは良いが、しっかり守らなければ、頑張って掘切掘ってる意味がないからな。なお、この門の北側からは石積み遺構が見つかっており、静岡県内で唯一確認された武田氏の石積みとのこと。他にもあったような気がするが、確かにすぐには思い出せないな。
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【本曲輪搦手】 |
本曲輪下段虎口から登ったところに設けられている本曲輪南側の虎口が搦手にあたる。三の曲輪から順に来たのに搦手とは少し納得いかない感じがあるが、確かに、こちらの門は掘立柱で質素な感じ。ちなみに北側の大手口は礎石造りなので、結構差をつけられている。
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【本曲輪】 |
尾根の北端に位置する約30m×20m程の本曲輪。城門、城壁の他、発掘に基づいて井楼櫓や倉庫などが復元されており、所狭しと建物が並んでいる印象。南側の主殿風の建物はそれっぽい感じに建てられてはいるが、実は発掘に基づいた復元ではない。しかし、この辺りから大石が沢山見つかっているので、主殿的な建物が建てられていたと思われる。なので、やはり相当密に建物が建てられていた事には変わり無さそう。これらの建物は、武田期に改修された頃のものと思われる。
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【本曲輪 井楼櫓】 |
発掘に基づいて復元されている井楼櫓。2間×2間の正方形の櫓跡で、柱穴のサイズは径60cm程あり非常に大きな柱を使っていた事が分かる。また中心からずれた位置にも柱穴が発見されており、これは櫓の梯子を支えた穴と考えられている。
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【本曲輪西側土塁】 |
本丸の西側、主殿風の建物の裏手には高さ50cm程の土塁が見られるが、表面が固められたりしており、どこまでが復元かはよく分からない。
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【城主石碑】 |
本曲輪に建てられている城主の石碑。いつ頃建てられたものかは分からないが、歴代城主と思われる奥山氏4名の名前が刻まれている。現在は武田期のものと思われる建物が復元されているが、少なくとも奥山氏が城主だった時期は100年以上あり、実際に出土している遺物の8割は奥山氏時代のものらしい。
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【本曲輪大手口】 |
本曲輪の北側に設けられている大手口。山麓から登城してくると、この大手口に至る。流石に大手だけあり、礎石を用いた門や番所風の建物まで併設され、枡形のようになっている堅固な造り。確かに当時はこんな感じだったのかもしれないと思わせる良い感じの復元。
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【北帯曲輪と本曲輪からの眺め】 |
城域の北側にもいくつかの腰曲輪が設けられている。この辺りの山麓からの比高は150m程あり、秋葉街道が一望出来る。秋葉街道は通称『塩の道』とも呼ばれる沿岸と内陸とを結ぶ重要なルートで、信玄もここを南下して三河に向かっていた。
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