田中城


【田中城跡】
 今から500年ほど前、今川氏の命令を受けた地域の有力者・一色氏が屋敷を拡大して城としたのが始まりと伝えられている。 その後、駿河を領地とした武田氏により三重の堀、三日月堀(馬出曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代初め城主・ 酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた直径約600mの全国的にも珍しい同心円形の田中城が完成した。 現在、西益津小学校のある場所が本丸跡で、西益津中学校の場所に藩主の屋敷があり、政治を行う場所である御殿が 建っていた。江戸時代には4万石ほどの譜代大名が藩主となり志太平野の村々を治めていた。明治維新で田中城は廃城になり、 城跡と建物は民間に払い下げられた。


【三ノ堀】
 信玄が馬場美濃守信房に命じて造ったものと言われている。堀と土塁が残っている。


【大手門跡】
 田中城軒田川に位置する大手門跡。現在はなにも残っていない。かつては城内で一番大きく、48坪程の枡形門だった。


【御殿跡】
 御屋形と呼ばれ、藩主の屋敷があり政務の中心的な場だった。現在は西益津中学校になっている。


【二ノ門跡】
 外枡形の渡櫓門で、大手一の門と同様に田中城の正門として重要視された。


【二ノ堀】
 この付近は大手二ノ門の入口にあたり、堀を渡るために長さ5.4m、幅3.6mの大手二ノ橋がかけられていた。その北西側 には三日月堀があった。当時の堀の幅は12.7〜21.8m、深さは2.1〜2.9m程あった。


【本丸跡】
 田中城は同心円状に4重の堀と土塁で造られていたが、本丸は四角形で480坪と小さく、御殿やお亭のみで天守閣の ような建造物はなかった。現在は西益津小学校になっている。


【三日月堀跡】
 武田家が得意とした三日月堀。かつては重要な城門の外側に計6カ所配置されていた。現在は、本丸南側、新宿二ノ門外側の 三日月堀だけ残っているが、これも実際の大きさの半分程。当時は長さ45m、幅10m、深さ1.8m程あったらしい。


【姥ケ池】
 池の形から別名「ひょうたん池」とも呼ばれている。江戸時代には田中城の水源となっており、木や竹で作った直径30cmほどの 木管を城内まで引き込み、城内や新宿の侍屋敷の上水として利用していた。池の周辺には石垣を積み、柵を巡らせ、見張りも いて厳重に守られていた。現在でもきれいな水が湧ぎ出ている。


【六間川】
 田中城の南を流れる六間川は、外堀の役目も果たしている。


【下屋敷】
 六間川を挟んで田中城の南東端に接した位置にあり、一色氏やその後古沢氏の居館跡だとも言われている。江戸時代後期には 城主の下屋敷がおかれ、築山、泉水、茶室などを設けられていた。現在は史跡公園となり、明治4年の廃藩置県によって民間に払い 下げられていた田中城ゆかりの建築物が移築、復元されている。

【本丸櫓】
 この櫓は、田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていたといわれている。本丸の南東隅の石垣上にあった「御亭」と 呼ばれる2階建の建物のあったことが記録されており、実質上の天守に相当する建物だったらしい。明治維新後、この櫓は払い下げられ、 移築して住宅として使われていた。田中城内より移築した建造物の中で、昔から最も著名な建物である。

【中間部屋・厩】
 長屋門に付設された納屋がだったらしい。仲間部屋と厩とを1棟に仕立てた建物で、手前右側の鬼瓦には城主・本多家の家紋 (立葵紋)が刻まれていた。また、解体の際、「安政六年」(1859年)と書かれた板材が見つかって出されており、建築年代もその頃と 推定されている。

【茶室】
 この茶室は、田中藩家老の茶室であったと伝えられている。きゃしゃな造りの数寄屋建築で、西側の四畳半の間が茶室、 東側には給仕口のついた六畳の待合が接続している。

【郷蔵】
 年貢米や飢饉に備えた非常米を保存するための蔵で、江戸時代は村ごとに置かれていた。村役人が管理しており、夜間は畳敷きの 小部屋に二人一人で泊まりこみ夜番をしていた。明治10年頃に中西家に払い下げられた長楽寺の郷蔵の半分を切り取り移築した ものと言われ、本来は現状の倍の大きさであったと見られている。市内に現存する唯一の郷蔵で、建替えした時の年月と村役人(庄屋) の名が柱に書き付けられている。

【亀石】
 亀石はかつて下屋敷庭園内・中ノ島の西側岸辺に、土留めの大石として泉水に浸かって置かれていたらしい。この他にも鶴石・瓢箪石・ 丸石などの庭石が吉兆の処々に配されていたらしいが鶴石以外の所在は不明。亀石は昭和42年(1967)の城南土地改良事業に伴う 六間川水路改修工事の際に下屋敷跡から偶然発見され、41年ぶりに元来置かれていた場所に戻された。

【築山】
 庭園の隅に築山の極一部が 『築山跡』 として残っている。