山中城


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 小田原に本城をおいた北条氏により、永禄年間(1558〜1570)に小田原防備のために築かれた 箱根山西麓の標高580mに位置する山城で、西方防備の拠点として重要視されていた。 天正17年(1589)、豊臣秀吉の小田原征伐に備え、西ノ丸や出丸等が増築されたが、 翌年三月、豊臣軍の圧倒的な大軍に包囲され、わずか半日で落城したと伝えられている。 近年、発掘調査が行われ、各曲輪のほか、畝堀や障子堀などが発見され復元されている。 戦国末期の北条流築城術の特徴的な遺構を残す貴重な山城として、国の史跡に指定されている。



【駐車場】
image-1  国道一号線沿いに整備されている駐車場。三ノ丸の南端に位置し、すぐ西側には 三ノ丸の二重堀が掘られ、東側には旧箱根街道が通っている。


【箱根旧街道】
image-1  駐車場のすぐ横を通る箱根旧街道。箱根旧街道は、慶長9年(1604)に江戸幕府が 整備した5街道の一つで、東海道の小田原宿と三島宿とを結ぶ8里の区間。 この辺りはローム層が露出していて滑りやすかったため、竹が敷かれていたが、 延宝8年(1680)頃に石畳の道に改修された。近年、当時の景観を保ち350mにわたり 復元・整備されている。山中城が機能していた当時から、ここは重要な街道だったと思われ、 山中城はこの街道を押さえる役割があったと考えられる。 この北側が本丸〜三ノ丸等の主郭部、南側が岱崎出丸となっている。


【三の丸堀】
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 三の丸西側に自然地形を利用して掘られた二重堀で、田尻の池付近から岱先出丸まで 南北180mにわたって続いていた。現在通路となっている中央の畝を境に、西側の堀は空堀、 東側の堀は水路として箱井戸、田尻の池からの排水路となっていた。


【田尻の池・箱井戸】
image-1 image-1  三ノ丸堀沿いに北上したところに位置する箱井戸と田尻の池。この辺りは二の丸の南側にあたり、 もともと湿地帯だったが、築城時に土塁によって区切られ、溜池として利用されていた。 また、すぐ西側は馬舎だった事から、馬の飲料水としても利用されていたと思われる。 この池からあふれた水は三の丸堀へと流れ出るようになっていた。 ここから東に進むと二ノ丸、西に進むと西ノ丸へと出る。

【田尻の池・箱井戸〜二ノ丸】
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 田尻の池・箱井戸のある低地をから二ノ丸へは東に迂回する長い通路を通り、 二ノ丸西側の重厚な土塁に突き当たり、そこを右折して曲輪に入る厳重なつくりになっていた。


【二ノ丸】
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 本丸の西側に位置する山中城最大の曲輪。東西に延びる尾根を掘切りで断ち切って造られており、 全体的に南に傾斜している。南側は箱井戸、北側には畝堀が掘られていた。

【溜池】
image-1  二の丸の北に造られた溜池の跡。山田川の支流の谷を盛土によって仕切って水を貯めていた。 また、本丸・北ノ丸等の堀水や、西ノ丸や元西櫓からの自然傾斜による排水もここに貯められる 仕組みになっており、山城において重要な水源となっていた。 4m以上発掘しても池底には達しなかったらしく、当時はかなり深かった事が分かっている。


【二ノ丸〜本丸】
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 二ノ丸と本丸との間にも見事な畝堀が掘られており、一部畝が切れている部分も見られる。 現在は、木橋が復元されている。


【本丸】
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 天守櫓とともに山中城の中心となる曲輪で、周囲を堅固な土塁と堀に囲まれている。 南側の一段下がった場所には兵糧個・弾薬庫が設けられている。江戸時代の古絵図に 描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚のあたりらしい。

【本丸北堀】
image-1 image-1  本丸北側、北の丸との間に残る規模の大きな空堀。当時は現在よりもさらに2m以上深かった。 堀底には西下がりの地形に合わせた堀底に畝が設けられ、水を貯める目的もあったと思われる。


【天守櫓跡】
image-1  本丸の東端、標高586mの場内最高所に設けられた天守櫓跡。7.5m四方程の方形で、 周囲には幅の狭い帯曲輪が設けられていた。植樹されていたため、櫓の柱穴は 確認できなかったらしいが、当時は櫓が建てられていたと思われる。


【北の丸】
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 本丸の北、堀を隔てた場所に位置する北の丸。発掘調査の結果、本丸との間には木橋が 架けられていた事が分かり、現在復元されている。


【元西櫓】
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 一旦二ノ丸まで戻り、西側エリアへ。二ノ丸の西側、西ノ丸との間には元西櫓が設けられ、 周囲を深い空堀で囲まれている。当初は無名曲輪と呼ばれていたが、発掘調査の結果から 元西櫓と命名された。曲輪内の盛土の下にはロームブロックが積まれ、排水を促したり、 霜による地下水の上昇を抑える役割をしていた。また、東側の二ノ丸と間の堀底からは 橋脚台と柱穴が見つかっており、現在は木橋が復元されている。


【西ノ丸】
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 西方の防御の拠点となる広大な曲輪。周囲は畝堀と土塁に囲まれ、西側には物見台が築かれていた。 発掘調査の結果、物見台の土塁はロームブロックと黒色土を交互に積んで補強されている事が分かった。 ここは諸曲輪が眼下に入る場所で、連絡・通報上の重要な拠点だったと思われる。 また、曲輪は全体に東に傾斜しており、雨水等は東側にある溜池に集められる仕組みになっていた。

【西ノ丸畝堀】
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image-1  西ノ丸南側の畝堀。東に傾斜した畝堀堀底から高さ2m程の畝が一定間隔ごとに堀り残されている。 2016年に訪れた際は、6年前に訪れたときに比べて、ずいぶんときれいに復元されたような気がする。 (写真左:2009年の写真)

【西ノ丸土橋】
image-1 image-1  西ノ丸の南に設けられた土橋。畝堀の東端に位置し、堀底から湧き出した水を貯めておくための 堤防の役割も果たしていたと思われる。

【障子堀】
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 西櫓と西ノ丸との間に掘られた障子堀。北条氏特有の築城技術で、中央の太い畝から 両曲輪に交互に畝を設けて、障子の桟のように堀底を区画している。 中央部の区画からは水が湧き出しており、水堀と用水地を兼ねていた非常に珍しい造り。 きれいに復元されすぎている感もあるが、この辺りの障子堀、畝堀が山中城最大の見所。 堀幅もかなり広いが、当時はこの畝堀上に木橋が架けられていたらしい。


【西櫓】
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 西ノ丸の西側に位置する西櫓。二の丸との間にも木橋が設けられ、角馬出として機能していた。 現在は南側の土橋のみが残っているが、北側の堀底からも4本の柱穴が見つかっており、 当時は木橋が架けられていたと思われる。この郭の周囲の畝堀も見事に残っている。(復元されている?)

【西櫓畝堀】
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 西櫓の周囲約82mを取り囲む西櫓堀。深さは10m近くあり、畝が約9m間隔で8本設けられている。 高さは堀底から約2mあり、当時は滑りやすいローム層が露出し、人が落ちたら抜けられなかったと思われる。 現在は遺跡保護の観点から芝生や樹木が植栽されている。


【岱崎出丸】
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 城域の南に位置する東西に細長い広大な出丸。天正18年(1590)の豊臣秀吉の 小田原征伐に備え、急遽造成された曲輸で、一部に未完成の部分も見られる。 北側には一の堀が掘られている。

【一の堀】
image-1 image-1  出丸の北側に設けられた一の堀。17ヶ所にに及ぶ見事な畝が確認されている。 滑りやすいローム層まで掘り下げられ、堀底から土塁上までは70度程の急勾配が 斜距離で約20m近く続く堅固な造りになっている。


【御馬場跡】
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 出丸で最大の曲輪。曲輪内は本丸と同様に二段構築でつくられており、 東側と北側に土塁、西側に空堀、南側は急峻な谷で囲まれていた。 建物跡は確認されていないが、田方平野の眺望が良く、出丸防衛の拠点だったと思われる。

【御馬場曲輪西側空堀】
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 御馬場曲輪西側の空堀。深さ9m程の規模の大きな空堀で、堀底からは畝も見つかっている。 畝の高さは堀底から約2mあり、頂部の幅は0.6m程で、滑りやすいローム層を掘って 造られている。

【御馬場北堀】
image-1  御馬場の北側に残る堀跡。御馬場曲輪西側の空堀と繋がり、東西の尾根上に長い出丸を 分断する役割を果たしていたと思われる。

【構築途中の曲輪跡】
image-1  御馬場曲輪南側の空堀横には、空堀を掘ったときに出たと思われるロームが小高い丘のように 積まれている箇所がある。この辺りは豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ造成された曲輸なので、 工事が間に合わなかったものと思われる。


【すり鉢曲輪】
image-1  出丸の南端に位置する防衛上重要な曲輪。中央部を凹ませた珍しい造りになっており、 その形状からすり鉢曲輪と呼ばれている。北側には武者だまりと思われる曲輪が接続している。


【岱崎出丸からの眺め】
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 標高550mの出丸からは西側の富士山麓、田方平野が一望出来る。西から押し寄せる 豊臣秀吉の大軍が一望できた事だろう。