皆川城



【皆川城】
 会津田島から移り住んだ皆川氏により1429年に築かれたと言われている。 麓からの比高80mの観音山に築かれた東西450m、南北300mの居館部と 山城からなる平山城で、帯曲輪や腰曲輪が山頂まで階段状に配された独特の形状から 法螺貝城とも呼ばれている。 皆川氏は小田原方だった為、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に皆川城は包囲され、 開城した。その後、皆川氏の存続は認められたが、皆川城は廃城となった。 現在は城址公園として整備されている。
image-1 image-1 image-1


【本丸跡】
image-1 image-1 image-1
image-1  一の曲輪とも呼ばれる山頂部の本丸跡。20m四方程の曲輪で、 周囲には階段状の帯曲輪が配されている。現在は展望台が建てられており、 非常に眺望が良い。


【二の曲輪跡】
 本丸から一段下がった150m×100m程の広大な削平地が二の曲輪跡。 皆川城で最も広い曲輪でお花畑とも呼ばれていた。現在は見はらし平となっている。
image-1 image-1 image-1


【西の丸跡】
image-1  二の曲輪の西隅に位置する櫓台が西の丸跡。曲輪と言うよりは櫓台で居住性はあまりない。


【井戸跡、池】
image-1 image-1  二ノ丸の南側一段下がったところにある曲輪には井戸跡と池が残っている。 山頂に近いこの場所で現在も満々と水をたたえているところを見ると、 水は豊富だったと思われる。


【城域南側】
 南側斜面は斜面を削平した複数の曲輪が連続しており、東西の規模の大きな 竪堀で曲輪を分断している。
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1


【南斜面 東側竪堀】
 南側斜面には東西二本の大きな竪堀が掘られている。東側の竪堀は麓の横堀を分断して 山頂の本丸付近まで延びる規模の大きなもので、堀の両側には土塁が築かれている。
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1


【南側空堀】
image-1 image-1  南側の竪堀の横から東側に向かって延びている山麓の規模の大きい空堀。 一部は藪に覆われてしまっているものの、空堀の外側の土居までしっかりと残っている。


【東側】
 南側からの空堀が東側山麓まで続いている。この辺りの空堀も外側に土居が築かれている。
image-1 image-1 image-1


【西側竪堀】
 南側斜面の西側の竪堀。麓から二ノ丸付近まで綺麗に復元されており、折れまで明確に分かる。 幅9m、深さは4〜5m程の規模の大きなもの。
image-1 image-1 image-1


【西桜平】
 西桜平と呼ばれている西側山麓の曲輪。周囲には土塁が築かれ、土塁の外側には空堀が掘られている。 また北側には曲輪を仕切るような土塁が残っている。
image-1 image-1 image-1


【西側外堀】
 西側山麓の外堀跡。雨上がりだった為に水堀のようになっていたが、 当時もこの辺りは水堀だったと思われる。土塁上からはかなりの高低差があり、 さらに外側にも土塁が築かれ、二重土塁のようになっている。
image-1 image-1 image-1


【西の虎口】
image-1 image-1  西桜平と上部の腰曲輪との間の虎口跡。似たような場所は多数見られるが、この西虎口は 縄張図にも載っているので、当時は何らかの門などが建てられていたと思われる。


【西側空堀】
image-1  西の虎口を登ったところにある空堀。それなりの広さがあるので、一見周囲を土塁に 囲まれた曲輪に見えなくもないが、空堀と見るのが普通らしい。


【西側腰曲輪】
 西側空堀の上部にも数段にわたり腰曲輪が連続している。
image-1 image-1 image-1


【北側】
image-1 image-1  綺麗に整備された南側と比べると北側はあまり整備されていないが、高低差20m以上の かなり急峻な地形になっている。


【居館跡】
 山城の南側山麓の現在公民館が建てられている場所に、城主の平時の住居である居館が建てられていた。 東西約140m、南北約100mの方形で三方を土塁に囲まれていた。現在でも当時の土塁の一部が残っている。
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1


【金剛寺】
 皆川城の麓の皆川氏の菩提寺。戦国時代から一代も欠ける事なく歴代当主がここに葬られている 非常に珍しい菩提寺。時代によって様々な形式の墓碑が並んでいる。
image-1 image-1 image-1