大田原城



【大田原城】
image-1  天文14年(1545)大田原資清によって築かれ、明治の廃藩置県までの300年以上の間 大田原氏の居城となった。蛇尾川沿いの標高25mの丘陵地を利用して造られた東西210m、 南北327mに及ぶ広大な城だった。中心部は本丸から三ノ丸に区画され、周囲に北曲輪、 西曲輪、馬場等が配置されていた。 奥州への抑えとして重要視され、家康は関ヶ原前に城の補修を命じ、家光は常時米千石を 貯蔵させている。戊辰の役の際には西軍の軍事拠点となり東軍との攻防戦が行われたが、 火薬庫の爆発により落城を免れた。 明治5年(1872)に城は兵部省に引き渡され、その際に建物は取り壊されたが、 現在は公園として整備され土塁などが残っている。


【坂下門跡】
 大手にあたる門で、規模の大きな枡形状の土塁が現在も良く残っている。 慶応4年の戊辰戦争の際はこの門外で東軍の会津藩兵との攻防戦が展開されたらしい。
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【三日月堀】
image-1 image-1  坂下門の横にある三日月堀。現在は堀の一部しか残っていないが、 当時は三日月状の堀だったと思われる。


【千石倉跡】
image-1  坂下門を通り、二ノ丸へ向かう途中にある腰曲輪。大田原城は軍事的な重要拠点だった為、 幕府の米が詰められた米倉が建てられいた。城詰米蔵や公倉とも呼ばれている。


【二ノ丸跡】
 銃弾や火薬が保管された硝煙庫や長屋などが建てられていた。本丸側の虎口には冠木門が建てられ、 南には三ノ丸の城主の居館に至る道が延びていた。周囲には低い土塁が残っている。
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【二ノ丸虎口】
image-1 image-1  二ノ丸の南側には現在東西2つの虎口があるが、絵図によると西側が三ノ丸方面に通じる 虎口だったと思われる。


【稲荷曲輪】
 二ノ丸の南に細長く延びた曲輪。曲輪の先端に一段高くなった櫓台のような場所があり、 稲荷社が建てられていた。
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【三ノ丸跡】
image-1  稲荷曲輪の西側の平地に城主の居館である三ノ丸があった。現在は住宅地になっている。


【本丸〜二ノ丸】
 本丸と二ノ丸を隔てる空堀。かなり規模の大きい空堀で、そのまま東西の堀底道へとつながっている。 中央部に土橋が架けられている。
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【台門跡】
 二ノ丸からの土橋を渡ったところにある本丸南側の虎口には、大門と呼ばれる城内で唯一石垣を伴う門があった。 現在も虎口の両側には、櫓台のようなひときわ高い土塁が残っているが、石垣は残っていない。
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【本丸跡】
 周囲を土塁に囲まれた広大な本丸跡。当時は正面15間半(28.2m)、奥行き26間(47.3m) 御殿兼諸役所の他、武器庫・納戸庫・長屋などが建てられていたが、明治5年(1872)に取り壊された。
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【本丸土塁】
 本丸周囲の重厚な土塁。高さは本丸内部からでも5m以上はあり、東側が一部削られている 他はほぼ完存している。幅も広く、当時はこの土塁上に塀が建てられていた。
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【裏門跡】
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image-1 image-1  本丸の北西隅にある裏門跡。裏門となっているが、ここを下りると大手である坂下門へと 直結する重要な門で、絵図によると細長い枡形状になっていたらしい。


【本丸東側】
 本丸東側の土塁の外側は空堀が掘られており、堀底道がそのまま北曲輪に続いている。
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【北曲輪〜東側空堀】
image-1  東側の空堀から北曲輪につながる部分。枡形のような地形になっている。絵図には描かれてはいないが、 この辺りにも何らかの門があったと思われる。


【北曲輪 上段】
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image-1 image-1  上下二段に分かれている北曲輪。上段の周囲は土塁に囲まれ下段と隔てられている。 東側に下段に続く門が建てられていた。

【北曲輪 土塁】
 北曲輪の上段の周囲を取り囲むように築かれている土塁。上段からの高低差でも3m程ある。 この土塁により上段と下段に分けられている。
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【北曲輪 上段虎口跡】
image-1 image-1  土塁の東側の一段低くなった場所。絵図によるとこの辺りに虎口があったらしい。


【本丸北側】
 北曲輪から見た本丸。かなりの高低差がある。
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【北曲輪 下段】
 北曲輪の下段は現在農地に転用されている。当時はここから蛇尾川方面に搦手口があった。
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【蛇尾川】
image-1  城域の東を流れる蛇尾川。東側の堀の代わりであると同時に、当時はこの川の水を引き込んた 水堀が造られていた。


【奥州街道】
image-1 image-1  城域のすぐ北側を通る奥州街道。当時からこの場所が交通の要衝だった事が分かる。