飛山城



【飛山城】
image-1  鎌倉時代の末期、永仁年間(1293〜1298)に宇都宮氏の重臣、芳賀高俊により築城されたと伝えられ、 以後約300年間芳賀氏の居城として機能した。何度か戦いがあったらしく、南北朝時代には南朝方の 攻撃を受け落城している。また戦国期には佐竹氏が在陣し、壬生氏に占拠された宇都宮城を奪還する 前線基地となった。 慶長2年(1597)に豊臣秀吉の命により廃城となったが、土塁や空堀などの戦国期の平山城の 遺構が良く残っており、現在は国指定史跡の飛山城史跡公園として整備されている。


【曲輪T、1号堀】
 城域の北橋に位置する曲輪Tとその周囲の1号堀。廃城時に埋め戻されたままの状態に なっているが、当時は3〜4mの深さがあったと考えられる。東側で2号堀と接続している。
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【曲輪U、3号堀】
image-1 image-1  曲輪Tに隣接する曲輪Uとその周囲の3号堀。この辺りも埋め戻されたままではっきりとしない。 曲輪T、曲輪Uともにかなり狭く、居住性に乏しい。


【曲輪V】
 曲輪T、曲輪Uの南側には位置された曲輪V。この曲輪までが主郭と見なされている。 周囲の土塁は発掘調査の成果をもとに当時の高さに復元されている。
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【2号堀】
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image-1  主郭部分にあたる北側の曲輪T〜Vと南側の曲輪Wとを隔てる2号堀。 発掘調査の結果、廃城の際に埋め戻された事が分かっている。

【曲輪V〜曲輪W 木橋】
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image-1  2号堀に架かる木橋が復元されている。橋の手前で道が折れ曲がり、真っ直ぐに入れないように工夫してある。 また、この木橋の横には横矢が配置されている。発掘調査では堀底から橋脚の柱跡が確認されている。


【曲輪W】
 主郭エリアの曲輪T〜Vの南に位置する曲輪W。主郭に比べるとだいぶ広く、 掘立柱建物などが建てられていた。周囲の土塁も綺麗に復元されている。
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【曲輪W 掘立柱建物】
 曲輪Wには4棟の掘立柱建物が掘立柱に土壁、屋根は石置板葺で復元されている。 主郭に入る木橋の前面に位置する事から、城主を守る兵の詰所と考えられている。
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【2号堀 東側】
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image-1  主郭部の曲輪T〜Vと曲輪Wの東側の2号堀とそこに架かる土橋。形良く復元されている。


【曲輪X】
 2号堀を隔てて主郭の東側に位置する曲輪X。現在は梅林となっている。
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【4号堀】
 北側の曲輪W、曲輪Xと南側の曲輪Yとを隔てる4号堀。城域を南北に分ける規模の大きな空堀。 中央の横矢付近と西側に土橋があり、複数の畝も見られる。特に西端の落とし穴のようになった 畝は特徴的だが、何故このような構造になっているかは不明。
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【4号堀 土橋】
image-1 image-1  4号堀に架かる土橋。横矢の先端部分に架けられており、少し違和感を感じる配置だが、 当時からここに架けられていたらしい。


【4号堀 管理用土橋】
image-1  4号堀には当時中央と西側の2本の土橋が架けられていた。この土橋は、管理用の土橋で、 遺構である土橋とは壁面を切り立たせる事で区別して造られている。


【曲輪Y】
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image-1  4号堀の南側一帯の広大な曲輪が曲輪Y。溝により東西2つのエリアに分かれており、 西側は遺構が少なく、建物の規模も小規模なものが多く、東側には大型の竪穴建物などが 見つかっている事から、東西で機能的な差があったと思われる。 東側の大型建物の一部は復元されている。

【曲輪Y 壁立式竪穴建物】
 発掘調査の結果をもとに壁立式竪穴建物と呼ばれる建物が復元されている。 土壁、茅葺き屋根で建てられており、竈も設置されていた。 ここから 『烽家』 と書かれた墨書土器が出土している事から、 烽の番人の詰所と考えられている。
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【曲輪Y 竪穴建物】
 地面を約1.5m掘り下げ、石置板葺の屋根を直接地面に葺きおろす建物が復元されている。 炉が無い事と、貯蔵用の大甕が出土している事から貯蔵用の穴蔵と考えられている。
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【曲輪Y 東側虎口】
 曲輪Yの東側の5号堀に架かる土橋と土橋を渡ったところにある門。 礎石と土塁上に柱穴が発掘されている事から、門柱に扉を設けた塀重門に両袖塀を 付けた形式の門だったと考えられる。またこの土橋の外側は馬出し形状になっている。
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【5号堀】
 曲輪X、曲輪YをL字状に取り囲む5号堀。発掘調査の結果で深さ6.5mあった事が分かっている。 南側は藪に覆われているが、北側は綺麗に整備されている。
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【曲輪Z 東側】
 5号堀の外側に位置する曲輪Z。東側は土塁や空堀、枡形などが綺麗に整備されている。
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【曲輪Z 枡形】
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image-1  5号堀に架かる土橋を渡ったところにある枡形遺構。6号堀に架かる木橋の正面に位置し、 木橋を渡ってきた敵に攻撃する為に造られたものと考えられる。溝の深さをもとに土塁も 復元されている。


【5号堀 土橋】
image-1  5号堀東側に架かる土橋は2本残っている。枡形のある土橋の南側にあり、現在はアスファルトで舗装されている。


【6号堀 東側】
 城域をL字状に取り囲む6号堀。東側部分は土塁や櫓台なども復元され、 良く整備されている。6号堀は外堀にあたるため、土橋はなく木橋が架けられていた。
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【6号堀 木橋】
 6号堀の東側には木橋が復元されている。こちらが大手で、木橋を渡ったところには 大手門があったと思われるが、発掘調査では確認されていないらしい。 この橋から東には古道が延びており、芳賀氏の菩提寺である同慶寺に続いている。
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【櫓台】
 6号堀には5ヶ所の櫓台が設けられており、そのうち東側の二基が形良く復元整備されている。 また、北側の櫓台は傾斜の角度を緩くして、土塁登り体験が出来るようになっている。 当時はこの櫓台の北側も崖まで土塁が続いていた。
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【曲輪Y 南側土塁】
 曲輪Yの南側を取り巻く土塁。この辺りは復元されていないらしく、高さは1m程度。
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【曲輪Y 南側虎口】
 曲輪Yの南側の虎口と5号堀に架かる土橋。土橋と言っても明瞭に残っておらず、 畝のような感じになっている。
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【5号堀 南側】
 曲輪X、曲輪YをL字状に取り囲む5号堀の南側部分。発掘調査の結果、この辺りは 少なくとも3回にわたり堀直しが行われた事が分かっている。ここから南側はあまり整備されていないが、 堀跡は明瞭に残っている。
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【5号堀 土橋】
image-1  先程の虎口の東側にも土橋のような形状が残っている。


【曲輪Z 南側】
 5号堀の外側に位置する曲輪Zの南側部分はあまり整備されておらず、藪に覆われているが、 南側の6号堀に突きだした横矢を兼ねた物見櫓などが明瞭に残っている。
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【6号堀 南側】
 城域をL字状に取り囲む外堀にあたる6号堀の南側部分。この辺りも藪に覆われているが、 堀跡は良く残っている。この堀のすぐ南側まで民家が迫っている。
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【眺め】
image-1  城域の西側を流れる鬼怒川との比高は25m程あり、天然の要害となっている。 ここから主家である宇都宮城方面が見渡せる。


【歴史体験館】
image-1  城の横には歴史体験館が建てられており、飛山状の歴史やジオラマなどが展示されているほか、 色々な歴史体験が出来るようになっている。