【一ノ宮城の歴史】
 南北朝期、延元3年(1338)小笠原氏の一族一宮氏が築いた城で、前方に鮎喰川、後方に険しい山々の自然の要害に築かれた 大規模な山城だった。天然の地形を利用しただけではなく、構造も非常に精巧堅固で阿波の名城に数えられている。 一宮氏(小笠原宮内大輔)は南北朝の頃南朝に与し、山岳武士(僧兵)を結集してこの城に籠もり、北朝に与した小笠原氏の 本家と対立したという。一宮氏が長年居城としていたが、天正10年(1582)土佐の長曽我部氏に攻められ落城する。 やがて天正13年秀吉の四国攻めで長曽我部氏は追われ、秀吉の家臣蜂須賀家政が入城した。翌年、蜂須賀家政が 徳島城に移ってからはその支城として有力家臣を置いて守らせたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。 現在では標高144mの本丸跡に石垣が残り、その他、明神丸、才蔵丸、水手丸、小倉丸、推丸、倉庫跡の遺構も明らかで、 貯水池と言われる窪地もその跡をとどめており、県指定遺跡となっている。

【本丸跡】
本丸は石垣を構えており、徳島市内が展望できる。広場に若宮神社の祠がある。

【経筒出土地】
明治40年、北側斜面下の神宮寺跡を開墾中に、12世紀頃のものと推定さ:れる高さ33cm・口径12cmほどの銅製の経筒が出土した。 釈迦入滅後、仏教の教えでは次第に衰え、日本では永承7年(1052)より末法の時代に入ったとされ、将来弥勒仏が現れる時まで お経を残そうと、筒に入れて理納したもの。

【陰滝】
上手の貯水池から流れ落ちる滝。貯水池は周囲の曲輪とこの岩壁によって堅固に守られていた。 採石場の跡とも言われている。

【貯水池と堤跡】
十分な水が確保できることが山城の必須条件であり、この貯水池の下手には水を貯めるための土手が築かれていた。水は南の谷から 筧で引いたといわれている。

【釜床跡】
本丸の下の釜床は城の炊事場の跡で、北の斜面は石垣で築かれている。現在は石組みが一基しか残っていないが、 以前は数基並んでいた。

【倉庫跡】
倉庫跡は2カ所残っている。普段は穀類や戦闘用の道具類を保管していた所で、両方とも登山道の要所に置かれていたが、 戦いの折焼かれたと言われている。ここは「ヤケムギ」とも呼ばれ、以前には雨の後などに炭化麦か出土していた。

【帯曲輪】
曲輪の側面や城の周りを帯状に細長く囲む曲輪を、帯曲輪と言う。この帯曲輪は本丸と明神丸を結び、城を守る為の 大切な曲輪となっていた。

【才蔵丸】
明神丸から続く尾根を切り崩して造られている。この堀切により才蔵丸は孤立した曲輪となっており、現在は展望休憩舎がある。

【小倉丸】

【曲輪】

【明神丸】

【推丸】

【投石用の石】
城を守るための投石用の石が本丸の南斜面に散見される。主に川から拾ってきたこぶし大の円礫。

【一宮神社】
一宮城跡の城山の麓にあり、祭神は大宜都比売命(別名天石門別八倉比売命)を祀っている。 本殿が国の重要文化財に指定されている。また、この神社の向かいには四国88ヶ所第13番札所大日寺がある。