【見附・外堀】 |
---|
慶長9年(1604)から寛永13年(1636)の約30年を費やして諸大名の普請で築かれた江戸城の 総仕上げとして、寛永13年に外堀が築かれた。これにより、城下町を取り囲む延長14kmの 総構えが完成し、日本最大の城郭防御施設となった。各街道との出入口には枡形門が配置され、 出入りを監視していた。 明治維新後は外堀としての役割は終え、市街化によって多くが埋められたが、現在でも一部は 道路や鉄道網などの都市の骨格に利用されている。 |
【常磐橋御門】 |
---|
常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じていた。 大きな切石で積み上げられた枡形門で、外郭の見附としては最も良く遺構が残っている。 |
【常磐橋】 |
---|
天正18年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸一の大橋だった。 当初は大橋とも浅草ロ橋とも呼ばれていたが、家光の時代に常磐橋という名が付けられた。 橋詰に北町奉行所があった事もある。現在の石橋は、枡形に使っていた石を用いて 明治10年(1877)に改架されたもので、洋式石橋の創始と言われる都内随一の貴重な洋式石橋となっている。 |
【一ツ橋門跡】 |
---|
【日比谷見附跡】 |
---|
この石垣は、江戸城外郭城門の一つ日比谷御門の一部。城の外側から順に、高麗門・ 枡形・渡櫓・番所が石垣で囲まれており、その石垣の一部と壕の跡にあたる心字池が残っている。 |
【日比谷見附 心字池】 |
---|
当時石垣の西側の濠だった部分は、現在心字池となっている。全体を上から見ると「心」の字を くずした形をしており、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法の一つ。 |
【牛込見附付近外堀】 |
---|
牛込見附付近の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は武家屋敷が 建ち並んでいたと伝えられている。外堀に架かる橋は、見附同様寛永十三(1636)年に阿波徳島藩主の 蜂須賀忠英によって架けられたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられており、 現在の橋は、平成八年三月に完成したもの。 |
【市ヶ谷見附跡】 |
---|
【四谷見附跡】 |
---|
【四谷見附周辺堀・土塁】 |
---|
JR四ッ谷駅はかつての外濠に造られている。 |
【四谷見附〜喰違見附】 |
---|
喰違見附から四谷までの外濠跡は、現在埋め立てられて、グラウンドや四谷駅になっている。 上智大学に沿って土塁が続いている。 |
【喰違見附跡】 |
---|
喰違見附付近は江戸城の見附で最も標高が高いところ。唯一の土塁による虎口で、折れ曲がった塁壁など、 今でもその名残を色濃く残している。 |
【弁慶堀】 |
---|
喰違見附から赤坂までは、かつての外濠が弁慶壕となって残っている。 |
【虎ノ門石垣(地下鉄部)】 |
---|
地下鉄銀座線虎ノ門駅に展示されている石垣は高さが7.4m程あり、ほぼ築城当時の高さが残っている。 この辺りは毛利高直が築いた場所に相当する。また、新庁舎連絡通路内には展示コーナーが設けられている。 |
【虎ノ門石垣(旧教育会館)】 |
---|
地下鉄部の石垣の少し南に残る石垣。現在見られる石垣は積み直されたものだが、この石垣下には当時の 石垣が残っているらしい。この辺りは池田長常が築いた場所に相当する。 |
【虎ノ門石垣(櫓台石垣)】 |
---|
虎ノ門付近に4箇所残る石垣跡の中で最も南、虎ノ門駅の道路向かい側に位置する櫓台の石垣。 外堀にあった唯一の櫓の跡で、虎ノ門とともに外桜田門から続く小田原道を守る重要な拠点だった事が分かる。 |