江戸城 藩邸・その他



【一橋徳川家 屋敷跡】
image-1  一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗の第四子宗尹が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことが始まり。 一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる 該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず将軍家の身内として待遇された。 当家は二世治済の長男家斉が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、 御三卿の中でも幕政に深く関わった。敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。


【近江彦根藩井伊家屋敷跡】
image-1  この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を 上屋敷として使用していたので、ここは中屋敷として使われた。井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、 関ヶ原の戦いで徳川寡康の軍奉行として活躍した。慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年 (1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続いた。 石高はほぼ35万石だった。井伊家は、譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもあった。幕末に幕政を 動かした井伊直弼は、特に有名。 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になった。


【尾張名古屋藩徳川家屋敷跡】
image-1  この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、 藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をした。尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、 紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、 御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、慶長8年(1603)甲斐府中藩主、ついで慶長12年 (1607)尾張清洲藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地としました。 尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になった。


【紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡】
image-1  この一帯には、江戸時代紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡があった。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領した。 紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称された。 頼宣は慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山 藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地とした。紀伊徳川家は以後14代にわたり、明治維新まで続いたが、その中で、 8代吉宗と14代家茂は藩主から将軍の座についている。石高は約55万5000石だった。 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になった。


【加賀前田藩 屋敷跡】
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 現在、東大の本郷キャンパス一体は江戸時代は加賀前田藩の上屋敷があった場所で、 2013年に御殿と家臣の居住する区域がが発掘調査された。調査の結果、当時の地下室や柱穴、 井戸、石組み遺構、上水道などが確認されたほか、多くの遺物が出土した。

【加賀前田藩 屋敷跡遺物】
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 出土した遺物には、御殿で使われた陶磁器や土器片などの他、銅銭、キセルや食物の残滓など、 様々なものが出土した。また、素焼きの土器が割れずに出土している事から、儀式的な事が 行われていた場所でもあったと思われる。

【加賀屋敷御守殿門(赤門)】
image-1  文政10年(1827)加賀藩主前田齋泰に嫁いだ11代将軍家齋の息女溶姫の為に建てられた御守殿門。 切妻造本瓦葺の薬医門で、左右に唐破風造本瓦葺の番所が接続している。屋根瓦には徳川家の三つ葉葵、 軒丸瓦には前田家の梅鉢、鬼瓦には東大の学の文様が見られる。 朱塗りの門は震災や戦災のため現存しておらず、現在は重要文化財に指定されている。


【紀尾井坂】
image-1  喰違い見附から赤坂方面へ下る坂で、この付近の藩邸紀伊、尾張、井伊の名を取って紀尾井坂と呼ばれている。 『新撰東京名所図会』には『喰違より。清水谷公園の方へ。下る坂を稱ふ。』また『紀尾井坂は紀伊家、尾張家、井伊家の 此所に鼎立し在りしを以て名つく』とか書かれている。また坂下が清永谷なので清水谷坂の別の名もあったと言われている。


【江戸水道の石枡】
image-1  この石枡は、昭和45年の麹町通り拡幅工事の際に千代田区麹町三丁目二番地先の道路で出土した玉川上水の幹線 (本管)の一部。玉川上水は承応2年(1653)に着工され、翌3年6月に羽村出身の清右衛門・庄右衛門兄弟によって 完成したと言われている。この工事により、羽村で堰を設けて多摩川の水を取水し、武蔵野台地の勾配を利用しながら 四谷大木戸(新宿区四谷四丁目)に至る43kmに及ぶ水道を造った。四谷大木戸で石枡や木樋による暗渠となり、江戸城内を はじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの武家地や京橋川以南の町地にも給水された。江戸水道幹線の大きさを示すとともに、 当時の都市施設の実態が伺える。なお、この石枡は現在、清水谷公園に、石枡とともに出土した木樋は区立四番町歴史 民俗資料館で保管されている。


【清水谷】
image-1  清水谷公園近くの交差点の辺りは江戸時代から「清水谷」と呼ばれてきた。尾張江戸切絵図にも「シミズダニ」と記されている。 それは、周囲から清水がわき出しており、通行人に喜ばれたためと言われている。この清水谷公園の改修に際して、公園の名に ちなみ湧水が復元された。


【贈右大臣大久保公哀悼碑】
image-1  明治一一年(1878)五月一四日朝、参議兼内務卿大久保利通は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出て、赤坂仮皇居に参朝の 途中、麹町清水谷で石川県士族島田一良・同長連豪・同杉本乙菊・同杉村文一・同平民脇田功一・島根県士族浅井寿篤の 6名に襲われて刺殺された。馭者中村太郎も難に殉じた。  現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に紀尾井坂の変と呼ばれ、人々に衝撃を与えた。 大久保の同僚であった明治政府の官僚たち、西村捨三、金井之恭、奈良原繁らの間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える 石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治ニ一年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成した。 哀悼碑の高さは、台座の部分も含めると6.27mで、緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩でできている。


【数寄屋橋】
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【蔵屋敷跡】
image-1 image-1  清水門の外側周辺は将軍直属の家臣の居住地や蔵、馬場、厩などが置かれていた。 発掘調査の結果、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いた事が分かっており、 米蔵の礎石の一部が展示してある。近代になると明治政府の厩が置かれ、明治9年には 大隈重信の屋敷が建てられていた。


【芝離宮】
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【追慕の碑】
image-1  竹橋近くにある『追慕の碑』 太田道灌の没後450年を記念して建立されたものらしい。