八王子城 居館エリア



【近藤曲輪】
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 八王子城の入口にあたる根古屋にある曲輪で、近藤出羽守が守っていたと言われている。 最初に訪れた時は何もない広場だったが、再訪した時は公園として整備され、ジオラマなどが つくられていた。一時期東京造形大学があった為、遺構はかなり失われているらしい。


【花かご川】
image-1 image-1  近藤曲輪とあしだ曲輪を分断する堀切の役割をしている川。自然の川に手を加えて要害化した感じ。


【あしだ曲輪】
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image-1  名前の由来ははっきりしないが、慶安古図に「アシダ蔵」と記されている。 2〜3段の曲輪群からなり、家臣の館や倉庫があったと考えられる。土塁も多く残っている。 落城時は近藤出羽守が守っていたと言われている。 ちなみに、ここは私有地らしく 立ち入り禁止になっていた。


【大手門跡】
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 以前から古図などで、このあたりに門があったと考えられていた場所だったが、 昭和六十三年の調査で門の礎石や敷石が見つかり、その存在が明らかになった。 発掘された礎石や敷石などから、薬医門だったと考えられている。現在は埋め戻されている。


【大手道(古道)】
image-1 image-1  戦国時代に御主殿へ入る道として使われていたと考えられている。御主殿側の道は 江戸時代に新たに作られた林道で、城山川をはさみ御主殿とは対岸にある道が当時の大手道。 当時は、さらに下流の方まで続いていたと考えられている。途中には大手門の跡や復元された竪堀も見られる。


【腰曲輪】
image-1 image-1  大手道沿いには、城山側にかけて数段の腰曲輪がつくられている。


【曳橋】
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 御主殿南側の城山川の両岸の斜面から橋台の石垣が発見されている事から、当時はここに 橋がかけれらていた事が分かる。どのような構造の橋が架けられていたかは分かっていないが、 敵に攻められた際は壊せるような曳き橋だったと思われ、当時をイメージした木橋が復元されている。


【御主殿石垣】
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 4段に重なる御主殿の石垣。犬走りを作るためと言うよりは、築城技術的に高い石垣を 築くのが難しかった為に、このような形状になっているような感じ。


【御主殿石垣】
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image-1 image-1  2015年に再訪すると、木橋は無くなっており、本丸石垣と反対側の橋台の石垣が よく見えるようになっていた。近い将来、再度架け直される予定らしい。


【御主殿虎口】
image-1 image-1  曳橋を渡ったところから折れ曲がる虎口が続く。この辺の石垣は当時のまま残って いるもので、検出されたままの状態になっている。石垣の勾配が急な事と、 多くの裏込石が詰められている事が特徴。

【御主殿虎口】
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 御主殿の虎ロは木橋をわたった位置から、御主殿内部まで高低差約9mをコの字形に 折れ曲がった階段通賂となっている。通路の幅は5m程で、全面に石が敷かれているのが特徴。 途中の2か所の踊場をはさみ全体で25段あり、踏面が平均1m、蹴上が36p程で、歩きにくく つくられている。石垣や石畳はなるべく当時のものをそのまま利用し、出来るだけ忠実な方法で 復元されている。また、石段を登り切った主殿の入口には冠木門が復元されている。

【櫓門礎石】
image-1 image-1  虎口の石畳遺構の踊り場から4つの建物礎石が発見された。礎石の間は東西(桁行)約4.5m、 南北(梁間)3.6mあり、櫓門が建てられていた考えられる。また、礎石の近くからは 排水のための石組側溝も発見されている。この礎石や石組側溝、大部分の石垣や敷石は 当時のものが利用されている。


【堀切】
image-1 image-1  御主殿とあしだ曲輪方面とを隔てる堀切。御主殿の虎口遺構の東側に明瞭に残っている。


【御主殿跡】
image-1  城主の北条氏照が居住した主殿があった山麓の中心的な曲輪で、周囲は石垣と土塁で囲まれている。 江戸時代初めに描かれた八王子城古図には、「北条陸奥守殿御主殿」と記されている。 落城後は徳川氏の直轄領、明治時代以降は国有林だった為に、あまり人の手が入らず落城当時の ままの状態で遺構が保存されており、ここからは主殿や会所跡などの礎石の他、中国の磁器類の 破片や国産の陶器、鉄砲弾をはじめとする武器・武具類などの遺物が発見されている。 中には当時の武人のたしなみであった茶道具や、当時でも極めて珍しかったと思われるベネチア産の レースガラス器の破片も含まれている。 平成4、5年度と平成25年度に発掘調査が行われ、現在は礎石などが展示されている。

【御主殿土塁】
image-1 image-1  御主殿の東側は、敵の進入に対し特に厳重に石垣や土塁で防備されている。

【御主殿礎石】
image-1  城主の氏照が執務を行ったと考えられる中心的な建物。15間半×10間(29.4m×19.8m) の広さで、東側の折中門と呼ばれる玄関から入り、広間や城主が座る上段などに続いてた。 建物は平屋建てで、瓦が見つかっていない事から、板葺きか檜皮葺だったと考えられている。

【会所跡】
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 主殿で儀式を終えた後、宴などを行った場所と考えられている。11間×6間(20.9m×13.3m)の広さで、 北側が主殿と廊下でつながっていた。柱を支える礎石には、落城時のものと思われる柱の焼け跡が 残っている。現在は床が再現されている。

【敷石通路】
image-1  会所の建物に沿って幅4.2m、長さ19.2mの範囲に石が敷かれていた。 雨落溝と考えられる2本の溝を両側に伴っている。何らかの儀式に使われたものと考えられている。

【庭園】
image-1  会所と主殿の建物に囲まれた場所に見つかった庭園跡。大小の礫が配されており、 枯山水の庭だったと考えられている。全容が明らかになっていない池は埋め戻され、 その他の石は発掘調査で検出された姿に再現してある。

【掘立建物跡】
image-1  発掘調査の際、内部が空洞になった柱穴が16箇所見つかった。落城の際に柱の根本が残り、 その後柱が腐って空洞化したものと考えられる。現在は、建物範囲などが色分けされている。

【塀跡】
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 主殿周辺の3ヶ所で塀の柱穴と思われる跡も見つかっており、場所が分かるように展示してある。

【道路状遺構】
image-1 image-1  主殿の周囲からは数ヶ所の道路状遺構が見つかっている。砂利を含む黄褐色土を 突き固られた路面や、平坦な路面が見つかっている。


【御主殿の滝】
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 天正十八年(1590)六月二十三日の豊臣秀吉の軍勢による攻撃で落城した際に御主殿にいた 女性や子ども、将兵たちが滝の上で自刃をし、この滝に次々と身を投じ、その血で城山川の水は 三日三晩赤く染まったとの言い伝えが残っている。しかし、身を投じるには低すぎるような気が・・・
また、古図によると、この滝の横は土塁が廻っていたが、昭和初期に林道を通す際に壊された らしい。現在でも滝のすぐ横にその土塁と石垣の一部が残っている。


【北条氏照の供養塔と家臣墓】
image-1 image-1  城域の西側にある北条氏照の供養塔と家臣の墓。両脇は氏照の家臣、中山勘解由家範および その孫の信治の墓で、百回忌に中山信治によって建てられた。 北条氏照は天正18年(1590)に小田原城下で切腹し、現在は墓だけが小田原駅前に残っている。