Japanese Castle

小山田城

小山田城について

 鎌倉幕府の有力御家人だった小山田有重によって承安元年(1171)に築かれたのが始まりとされる。居館跡と思われる大泉寺を取り巻くように築かれた比高30m程の典型的な谷戸式の城。室町時代には小山田庄は扇谷上杉氏一族の所領となり、文明8年(1476)の『長尾景春の乱』の際には扇谷上杉方が小山田に拠点を構えたが、長尾景春の軍に攻め落とされたと伝えられている。その後、戦国期には後北条氏の影響下に入り、城も再利用されたとも言われているが、遺構を見る限りでは大きく手を加えられた感じはないので、利用されたとしても一時的なものだったと思われる。ちなみに、甲斐武田氏の滅亡に関わった小山田信茂はこの小山田氏の一族にあたる。

本丸

【大泉寺】
 小山田城山麓の大泉寺。と言うより、この寺を取り囲むように城が築かれており、現在の寺の場所に居館が建てられていたものと思われる。城域は寺の敷地で現在は入山禁止となっているが、お寺の方にお願いすると、快く案内してくれる。なお、寺の境内には小山田城の石碑や顕彰碑などもあるらしいが見逃した。
【東尾根】
 寺の方の案内に従って東尾根から登城。まず城址全域にわたって並んでいる羅漢像に圧倒される。これらは文明8年(1476)の『長尾景春の乱』の際の戦没者を慰霊するためのものらしい。まさかその頃の慰霊が未だに続いているとは、寺の歴史はすごい。
【二の丸】
  城域の北東に位置する二の丸跡。入山禁止となっている割には、しっかりと『二の丸跡』の石碑が建てられている。時代的には2郭と呼んだ方がふさわしい。土塁などは見られない小曲輪で、あまり手が加えられてない印象。
【堀切】
 二の丸から尾根伝いに西側の本丸方面へ。途中に明瞭な堀切が残っている。うっすら二重堀切のようにも見える。
【本丸馬出】
 堀切からさらに東の本丸へ。手前で一段高くなった馬出状の曲輪が見られる。この辺りは北条氏によって手が加えられている可能性もある。
【本丸】
 城域の北西部、一段高くなった場所に位置する本丸。南北に比較的広く、思いの外居住性がありそうに見える。周囲はしっかり切岸加工されているものの、土塁や技巧的な造りなどは見られず、比較的古い造りのように見える。
【西側尾根】
 本丸からは居館の西側を取り巻くように尾根道が続いている。一部は土橋状になっており、南端には登城口の虎口跡が見られる。こちらの尾根をたどると本丸まではあっという間だが、堀切は見当たらない。大丈夫か?と思ったが、ここが原因かは分からないが、実際に落城している。
【西側腰曲輪】
 上記の西側尾根の内側には腰曲輪のような平場も見られる。ここ以外にも、寺の周囲には城跡の名残のような地形が随所に見られる。