【滝山城の歴史】 |
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滝山城は、武蔵国の守護代大石氏(定重、定久)と小田原北条氏の一族(氏照)の居城であり、規模の大きさ、 縄張りの複雑さ、遺稿の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡である。 永正18(1521)年に大石定重が築城し、高月城から移転したと伝えられており、その後永禄元(1558)年前後に 定久の養子として入城した北条氏照によって大改修が行われたと考えられている。浸食の進んだ加住丘陵の一角に占地し、 複雑な自然地形を巧みに利用した天然の要害であり、特に北側は多摩川との比高50〜80mの断崖をなしていて、 北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっている。城内は空堀と土塁によって区画された大小30ばかりの郭群が 有機的に配置され、外敵の侵入に備えた心くばりは実に美事である。大石氏時代には、現在本丸と呼ばれている主郭を 中心として、二の丸と呼ばれている郭付近までであったと考えられており、小宮郭などその他の郭群は北条氏照時代に 拡張されたものと言われている。永禄12(1569)年、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中に、二万の兵で本城を囲み、 二の丸まで攻め寄せるほどの猛攻を加えたが、城主氏照を中心に城方もよくこれに耐えて守り抜き、落城をまぬがれたという。 しかし、この戦闘の後、氏照は武田に備える戦略上の利点から八王子城を築き、天正12〜15(1584〜1587)年頃に その居を移した。現在は、都立公園として整備されている。 |
【本丸跡】 |
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曲輪は南北2段に分かれ、土塁により囲まれている。南側の低い段には出入り口と推定される 枡形虎口が二箇所確認でき、その一つは引橋を通じて中ノ丸へ、もう一つは堀底へと通じている。 当時の井戸跡も良好に現存している。北側は一段高く、多摩川方面が一望できる配置になっている。 |
【本丸 枡形虎口 南側】 |
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本丸南側の池底へと通じる虎口。枡形がしっかりと残っている。 |
【本丸 腰曲輪】 |
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【井戸跡】 |
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本丸内に残る井戸。 |
【本丸からの眺め】 |
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本丸内に残る井戸。 |
【引橋】 |
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深い堀で隔てられた本丸と中の丸を繋いでいる橋。敵の侵入時には、この橋を取り壊すことで、最後の砦である本丸を 守る事が出来た。当時の姿は明らかではない。 |
【本丸〜中の丸の壕】 |
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【中の丸〜二の丸の壕】 |
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【中の丸】 |
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滝山城古図には、この曲輪は千畳敷と記されている。城全体の北側に本丸と対に配置されており、内部は 本丸と同様に2段に分かれている、かつては枡形土塁や本丸へ渡る引橋が設置されていた。 (本丸、中の丸、二の丸等の呼び方は中性の城郭では使われないが、分かりやすいこの呼び方で統一している) |
【中の丸 土塁】 |
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【中の丸 虎口】 |
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【中の丸 腰曲輪】 |
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【池跡】 |
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【二の丸】 |
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この曲輪は城の中心に位置し、他の曲輪に比べ、出入口が頑強な事から、城主が居住していたと考えられている。 周囲の中の丸、千畳敷、馬出曲輪への通路は全て良好に残っている。曲輪の内部は屋敷部分と一段低い通路とに分けられている。 |
【二の丸虎口 東側】 |
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【二の丸虎口 南側】 |
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【二の丸虎口 西側】 |
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【二の丸東側の壕】 |
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【二の丸南側の壕】 |
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【二の丸〜千畳敷の壕】 |
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【二の丸〜信濃屋敷の壕】 |
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【二の丸〜馬出し】 |
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土橋 |
【馬出し】 |
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【馬出し周辺の壕】 |
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【信濃屋敷跡、刑部屋敷跡】 |
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城跡の曲輪は、城郭の中心となる要害部と、それを取り巻く家臣屋敷に分けられるが、この曲輪は後者。 南側に一段低い通路が設けられ、曲輪内部は四つに区分されていた。 |
【池跡】 |
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【千畳敷跡】 |
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一般に、広い曲輪をさして千畳敷と言う。遺構調査では、柱穴と推定される穴跡が多数確認され、大型の 建物が存在していたと推定される。 |
【千畳敷〜三の丸】 |
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土橋、虎口などが残る。 |
【三の丸跡】 |
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北側を走る通路より一段高く構えられた所で、屋根上に突き出したように配置され、周囲を深い堀と高い土塁で囲まれている。 北側の中央に出入り口と推定される通路が残っている。 |
【三の丸の壕】 |
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【小宮曲輪】 |
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家臣屋敷の一つ。要害部の西側に細長く配置された曲輪で、東側を一段低く通路にし、曲輪内部は幾つかの区画が 段差により形成されている。西側には土塁が良好に残り、城域の西境を頑強に守っている。 |
【小宮曲輪の壕】 |
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【小宮曲輪の壕】 |