鹿野城 山麓エリア



【本丸】
image-1  江戸期に入り、拡張された山麓部分の中心となる曲輪で、城主の居館があったと思われる。 現在は鹿野中学校の校庭となっているが、周囲にはわずかながら土塁も残っている。 また、北東隅は鬼門を意識してか、角が削られている。
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【本丸水堀】
 本丸周囲の水堀。この堀沿いの土手には所々石垣も残り、明確な折れも見られる。
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【薬研堀】
image-1  本丸東側に残る薬研堀。現在は、だいぶ埋まってしまっているのか、堀と言うよりは 池のようになっている。

【本丸東側虎口】
image-1 image-1  本丸の水堀と薬研堀の間にかけられた土橋が形良く残っている。

【本丸西側石垣】
image-1 image-1  本丸の西側に残る石垣。この石垣で鹿野苑方面とを隔てている。この辺りに西物見櫓が 建てられていたと思われる。

【本丸北側虎口】
image-1 image-1  本丸北側の虎口。二の丸とつながる虎口で、ここが大手だったと思われるが、 どのような形状の虎口だったのかは良く分からない。


【本丸〜二の丸】
image-1 image-1  本丸と二の丸を繋ぐ木橋。現在は鹿野中学校の校舎とグラウンドの連絡橋になっている。


【二の丸】
 外堀と内堀に囲まれた独立の曲輪となっており、一部石垣や櫓台の土塁なども残っている。 現在は鹿野中学校の校舎が建てられている。それにしても、何て贅沢な中学校だろう。
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【二の丸水堀】
 幅20m程はある規模の大きな水堀。水堀に面した石垣には明確な折れが見られる。
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【二の丸西側虎口】
image-1 image-1  当時虎口は東西に開いており、二の丸自体が巨大な馬出しのような性格の曲輪だったように思われる。


【鹿野苑】
image-1 image-1  本丸の西側、一段下がった場所にある小郭。当時は城山の番所のようなものがあったかもしれない。


【鹿野城下】
image-1 image-1  城下町には町屋が寺が点在しており、山中鹿之助の墓がある幸盛寺や、祭りに使われた 太平石なども残されている。


【幸盛寺】
 山中鹿之助幸盛の墓がある幸盛寺。鹿之助の養女を娶った亀井茲矩が遺骨を高梁から移して 墳墓を築いた。
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【鹿野小学校】
image-1 image-1  二の丸の西側の鹿野小学校の校章も亀井氏の家紋が使われいてる。