若桜鬼ヶ城



【若桜鬼ヶ城】
image-1  築城時期は不明だが、延徳元年(1489)には地元の豪族の矢部氏の館があったと言う記述がある。 播磨、但馬へつながる交通の要衝にある為、戦国期には毛利氏、尼子氏、織田氏などによって争われた。 秀吉による鳥取城攻めの際には秀吉方の拠点として機能した。その後城主が入れ替わり、 元和3年(1617)に池田光政が因伯二国を領す鳥取城主となると、一国一城令により廃城となった。 城郭の遺構は中世の曲輪、堀切などが多く見られる尾根部と、近世になって築かれたと思われる 総石垣の山頂部からなっており、廃城の際に壊された石垣がそのまま残っている。


【馬場】
 城域の南尾根伝いにある馬場。土塁で南北に仕切られている。 現在は駐車場になっており、ここまで車で乗り入れられる。
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【馬場〜ホウヅキ殿】
 馬場から城域までは唯一尾根続きとなった弱点に当たる為、土塁や堀切で守りを固めてある。 尾根の両側はしっかりと切岸も残っており、この辺りの遺構は中世山城の雰囲気。
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【ホウヅキ殿】
 馬場から城域に向かうと最初に見えるのがホウヅキ殿の石垣。石垣の上部は比較的良く残っている。 この曲輪の上部が本丸になるが、本丸との間は崩れかけた石垣や巨石が転がっている。
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【ホウヅキ殿〜大手道】
image-1  ホウヅキ殿から本丸・二の丸の東側を通り三の丸に至る道が当時の大手道だったが、現在は 荒れ果てて通れる状態では無かった。一部に石垣も見られる。
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【三の丸】
 城域の北側に位置する曲輪で、ホオヅキ殿から大手道を通りこの三の丸虎口でもあった大手門に至る。 周囲は石垣に囲まれ、北側には小郭群を経て山麓に向かう道があった。
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【三の丸虎口】
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image-1  三の丸の東側に位置するの大手門。現在は崩落が進んでいるが、立派な枡形門だった事が分かる。


【三の丸石垣】
 三の丸の周囲を取り巻く石垣。東側の大手門付近の石垣は特に立派で、二重に造られていた事が分かる。
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【二の丸】
 三の丸の南側、一段上がった曲輪が二の丸。三の丸との境は明確ではない。
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【本丸】
 三の丸、二の丸と連郭式に並んだ曲輪の最高所が本丸。現在は多くの瓦や石垣が散乱している。
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【本丸虎口】
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image-1  本丸北側の虎口。石段と両側の石垣が残っている。だいぶ崩れているが、小規模な枡形 だったと思われる。

【本丸北側石垣】
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image-1  本丸北側の石垣は一部が崩落しているものの、比較的良く残っている。崩落しかけている部分は 土嚢で補強されていた。

【本丸北東隅】
image-1  鬼門に当たる北東隅の石垣は削られているらしいが、現状では土や草に覆われて 良く分からなかった。

【行き止まり虎口】
image-1  行き止まり虎口と言うのが、他ではあまり見られない特徴的な遺構。なんでも、 虎口と見せかけて行き止まりになっている囮の虎口だったらしい。大手道から歩ければ この虎口の意味も分かりやすかったかもしれないが、本丸側から眺めても良く分からなかった。


【天守台】
 本丸南側に築かれた天守台。10m四方ほどの小さなものだが、石垣は比較的良く残っている。 石組みから近世初頭になって築かれたものと思われる。
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【天守台】
 天守台の上には何らかの礎石や窪みなどが残っているが、どのような目的のものかは 良く分からない。
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【本丸西側石垣】
 本丸の西側部分の石垣はかなり崩れているが、これは廃城の際に意図的に壊されたものらしく、 当時の破城の状況を窺う事が出来る貴重な遺構。間近で見ると、かなり迫力がある。
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【本丸南側石垣】
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image-1  南側には低めの石垣が残っている。

【登り石垣】
image-1 image-1  本丸西側の斜面に登り石垣のような石垣が見られる。ここにそのような石垣があったという話は 聞いた事が無いので定かでは無いが、位置的に考えても似たような性格の石垣があってもおかしくは無い。


【本丸からの眺め】
image-1  播磨・但馬両国に通じる街道を見渡せる交通の要衝。かなり眺めが良い。


【西側腰郭と虎口】
 本丸西側の一段下がったところは腰郭が取り巻き、六角石垣方面への虎口や搦手口の石垣なども残っている。
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【搦手】
 西側の腰郭に残る搦手門。枡形の石垣がしっかり残っているが、石垣の外側の道は 藪になってしまっていた。
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【西側石垣】
 西側腰郭の石垣は、間に犬走りを挟んで2段になっている。それぞれの石垣の高さも高く、 かなり迫力がある。
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【搦手〜ホウヅキ殿】
 搦手からホウヅキ殿方面の石垣は一部崩落しているものの、他に比べれば比較的良く残っている。
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【本丸〜六角石垣】
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image-1  本丸西側の六角石垣へと下る尾根伝いの道は、数段に削平された小郭になっている。 途中、南側に高石垣が見られるが、この石垣がこの城で一番高いかもしれない。


【六角石垣】
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image-1  本丸から西側の尾根を下ったところに位置する六角石垣。この辺りは破城されなかったのか、 鈍角の石垣が綺麗に残っている。

【六角石垣】
 六角石垣の曲輪。あまり広くは無い。南側の一部には土塁が残っている。新しそうな鹿の糞が 転がっていた。確かにこの辺は普通にいそう。
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【小学校】
image-1 image-1  現在は廃校になっている麓の若桜小学校。当時はこの辺りに居館があったかもしれない。