松倉城跡
松倉城跡について
松倉城の歴史は古く、暦応元年(1338)に越中守護普門俊清が松倉城に立て籠もったという記録が残っている。
戦国期は守護代の椎名氏の居城となり上杉謙信に従っていたが、武田信玄に寝返ったため、越中を追われた。
その後は上杉氏の越中支配の重要拠点として機能すると同時に、付近で発見された松倉金山を守るための城としても重要視され、
越中三大山城の一つに数えられる巨大山城となった。天正10年(1582)の織田信長の越中侵攻の際に魚津城が落城すると
松倉城の上杉勢も撤退したが、本能寺の変後、上杉氏が一時奪回した。
しかし、翌11年(1583)には佐々成政によって攻められ、上杉氏は越後へと退去し、佐々氏の城となり、慶長年間に廃城となったと思われる。
|
【駐車場】 |
松倉城は越中三大山城という、凄いのか凄くないのかイマイチよく分からないものの一つにも数えられているだけあり、やはり規模は大きい。
山麓からの比高も300m程あるらしいが、尾根伝いに車道が設けられており、本丸のすぐ下まで行けてしまう。
時間があれば本来は大手から歩きたいものだが、車で行けるとつい楽してしまう。ちなみに、駐車場奥の登城路入口には『松倉城主之碑』があった。
|
【主郭~二の曲輪 空堀】 |
駐車場からの登城路がそのまま主郭と二の曲輪との間の空堀の堀底道となっている。遊歩道が設置されていることもあり、現在はだいぶなだらかになってしまっているが、深さは5m程あり規模が大きい。
|
【主郭虎口】 |
堀底から主郭に上る途中には、比較的大きな石が見られる。基本的には土の城だが、虎口などの一部では石積みのようなものもあったのだろうか。
|
【主郭】 |
そのまま遊歩道を上ると、あっという間に着いてしまった主郭。楽は楽だが、やはり何の情緒もない。時間がある限り、やはり大手から歩きたいもの。主郭は尾根の南端に位置する南北に細長い広大な曲輪。南側が一段高くなっており、そこに現在は巨大な石碑が建てられている。
|
【主郭腰曲輪】 |
主郭の西側には一段低くなった帯曲輪がもうけられているが、こちらもかなり広大。江戸時代の絵図には馬屋と記されているらしい。
|
【八幡堂】 |
本丸の南側は、空堀を隔てて八幡堂がある。曲輪としては狭すぎるので物見台的な役割、もしくは名前から考えて祭祀的な場所だったと思われる。
ここの空堀もかなり規模が大きいが、藪に覆われて降りれる感じではなかった。
|
【主郭からの眺め】 |
主郭からの眺め。富山湾から能登半島まで一望出来る要所。魚津城辺りもはっきりと見える。しかし、すぐ近くで山を切り崩している場所が・・・
何をしているのかは分からないが、あんな感じで山ごと削られてしまったら、遺構も何もあったものではない。怖いな。
|
【升形城跡】 |
北側の少し下がったところに見える升形城跡。松倉城跡を中心として、このような山城や砦が築かれ、広域な城郭群を構成していた。
|
【二の曲輪 虎口】 |
今度は二の曲輪へ。主郭よりもこちらの方が高い位置にあり、こちらが主郭だった可能性もある。また、南側(主郭側)の虎口は枡形っぽくなっている。松倉城はあまり技巧的な造りは見られないが、何故かここだけ枡形? しかも、主郭との間の二の曲輪側と言うのも位置的に不自然。自然地形でたまたま枡形っぽく見えるだけなのかもしれない。
|
【二の曲輪】 |
本丸の北西側に位置する二の曲輪。主郭が広すぎたのであまり感じないが、こちらも山城としてはかなり広い。
二の曲輪にも、主郭同様西側に腰曲輪が設けられており、ここには武器蔵があったと言われている。
|
【二の曲輪~三の曲輪】 |
二の曲輪から北西側の三の曲輪に向かうと、まず明瞭な掘切が残っており、そこから平坦な地形が続く。これと言った遺構は見られないが、この辺も曲輪として使われていたのだろう。その北側、三の曲輪手前にもう一本の掘切が掘られている。
|
【三の曲輪】 |
三の郭。主郭、二の曲輪と比べると規模は小さいが、周囲には明瞭な土塁が残っており、切り岸加工も見事に見られる。ここまで来る人は少なそうだが、この辺りが土の城マニアとしては一番の見所に思える。当時は米蔵として使われていたらしい。
|
【三の曲輪~四の曲輪 掘切】 |
三の曲輪の北側、四の曲輪との間の巨大掘切。城内最大規模の深さ10m近くはありそうな巨大な掘切で、鋭角に掘られ、北側の尾根を分断している。この辺りが守りの要所だったのだろう。
|
【四の曲輪】 |
三の曲輪北側に位置する四の曲輪。ここも三の郭同様、周囲の土塁が残っている。南北の掘切も明瞭。ここから北側にも遺構が続きそうだったが、
藪に覆われて、はっきりとした遺構が確認出来たのはこの辺りまで。実際の主要部もこの辺りまでだったと思われるが、十分なスケールの城だったことが分かる。
|
【入場門広場】 |
主郭部がある尾根の付け根辺りにある入場門広場。それっぽい建物が建てられた、整備された公園になっているが、この辺りが『のろし台』もしくは『平ノ峰』と呼ばれていた場所。松倉城は、当初この辺りに築城されたという説もあるらしい。
|