Japanese Castle

富山城

富山城について

 天文12年(1543年)に越中の守護代だった神保長職により築かれた。上杉謙信の越中侵攻により奪われたが、謙信の死去後、神保長住が織田信長の助力を得て取り戻した。天正9年(1581)に、信長配下の佐々成政が入城し大規模な改修が行われたが、成政は秀吉と対立し、秀吉の10万の大軍に包囲され降伏・開城した。その後、前田氏の居城として、利長が在城したが、慶長14年(1609)に火災が発生し、利長は高岡城へ移った。江戸期は富山藩前田氏の居城として使用され、藩政の中心となったが、明治維新後は建物も解体され、周囲の堀も西出丸の南側部分を除いて埋め立てられていった。現在は公園となっており、模擬天守も建てられている。
【模擬天守】
 昭和29年に彦根城、犬山城などの現存天守を参考にして建てられた望楼型の三重天守。それっぽく見えるが、完全な模擬天守で、 内部は郷土資料館になっている。模擬も良いが、鉄門跡の石垣に建てられてしまっているのは少し残念。津城もこんな感じだったかな? 実際の天守は、当初新発田城の天守と同様に3個の鯱が乗せられた五層の天守が本丸の南東隅に建てられていたらしいが、 江戸時代にはなかったと考えられている。

【鉄御門枡形】
 本丸南側、大手にあたる枡形虎口。土橋を渡ったところに一の門を置き、左に折れた内部に鉄御門を設ける予定だったらしいが、 一の門は実際には造られなかった。立派な石垣が残っているが、外側は一度積み直されているらしい。

【鏡石】
 枡形に残る鏡石。慶長年間(1596~1615)に設置されたものと思われるが、富山藩設立期の改修で再設置されたと考えられている。 西面に1つと、東面、北面に2つずつ計5石ある。
【本丸】
 寛文元年(1661)に、本丸の大半を占める御殿がが建てられたが、正徳2年(1712)に消失した。 嘉永2年(1849)には前田利保の隠居後の屋敷としての千歳御殿が建てられたが、6年後の安政2年(1855)に消失し、再建される事は無かった。
【本丸周囲の石垣】
 本丸の周囲には石垣が良く残っている。枡形部分を除くと基本的には野面積みのようだが、南面には丸みを帯びた石を用いているのが印象的。
【礎石】
 本丸内には二ノ丸の大手門礎石や慶長期のものとみられる櫓の礎石、刻印のある石垣用の石材などが展示されている。
【千歳御門】
 本丸の東側の虎口には、十代藩主の前田利保が隠居所として造営した千歳御殿の正門が移築されている。 嘉永二年(1849)に建てられたので、ギリギリ現存建築物と言うことになる。富山城では唯一の現存建物で、 東大の赤門と同じ薬医門となっている。明治維新後、城下の豪農宅に移築されており、近年本丸の東側に再移築されたが、 周囲の石垣とのミスマッチさが残念すぎる。他に移築するとこなかったのかな?
【前田正甫像】
 本丸内に建てられている二代藩主前田正甫像。前田正甫は参勤交代で江戸城に登城した際、大名の腹痛を薬で鎮め、 『富山売薬を広めた殿』として有名らしい。
【搦手門】
 本丸の北東に位置する搦手門跡。当初は食違い虎口だったが、万治年間(1658~1661)に平虎口となり、その後、 外側に枡形が設けられたらしい。現在見られる両側の石垣は天明年間(1781~1789)以降に築かれたもの。
【西出丸】
 西出丸は藩主の居館があった場所と考えられており、当時は本丸との間は堀で隔たれ土橋で連絡していた。 明治以降に南側を除く三方の堀が埋められ、現在は本丸と繋がって公園となっている。
【大手門跡】
 現在は市街地になっているが、当時は城跡の南側に二ノ丸、三の丸が続いていた。 現在、市民プラザがある場所の少し南に二ノ丸の大手門があったらしい。
【神通川】
 本丸の北側を流れる神通川。水堀の役割をしていた。
【前田利長の兜】
 郷土資料館にあった前田利長の兜。本当に長いな。