魚津城
魚津城について
北国街道が通る交通の要衝に位置する平城で、建武2年(1335)頃に椎名氏により松倉城の支城として築かれたと言われている。
永禄12年(1569)に上杉謙信が椎名氏を破って攻略し、その後は上杉家の越中支配の拠点として機能した。
上杉謙信の死後、勢力を伸ばしてきた織田軍との間で壮絶な攻防戦が行われ、本能寺の変の翌日に落城した事で有名。
江戸時代に入ると前田家の支配下となり、元和元年(1615)の一国一城令の頃に廃城となったと思われるが、
廃城後も加賀藩の武器庫や米蔵などとして使用されており、城外には藩の役所が置かれていた。
江戸末期まで堀の跡があったが、明治以降の開発により完全に消滅し、現在本丸部分は小学校となっている。
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【本丸跡】 |
現在は小学校となっている本丸跡。当時は方形の本丸を中心とした巨大な水堀を持つ輪郭式の平城だったらしい。
現状を見るととても想像出来ないが、織田の大群を相手に80日間も籠城していた事を考えると、それなりの城だったのだろう。
校庭の北西隅にある小山は、案内してくれた人の話によると土塁の跡らしい。
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【資料館】 |
小学校の一室が資料館として解放されており、ジオラマや『魚津在城12名連署書状』のレプリカなどが展示されている。
ここの係の人が親切な人で、校舎の屋上まで連れて行ってくれ、色々と説明してくれた。
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【学校の塀】 |
小学校の塀は城をイメージした感じになっているが、当時は白壁ではなかったと思う。
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【天神山城跡】 |
魚津城から見た天神山城跡。魚津城から直線距離で3km程。景勝はここまで来ていたが、春日山城に森長可が迫っているとの知らせを受け、
魚津城の救援をあきらめて撤退していった。苦渋の決断だっただろうな。
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【松倉城跡】 |
魚津城から見た松倉城跡。魚津城は当初松倉城の支城として築かれた。
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【米騒動発祥の地】 |
城下に残る『米騒動発祥の地』。魚津城とは直接関係ないが、教科書に載っていたあの米騒動。
大正7年(1918)にここで全国で初めての米騒動が起こり、ここから広まっていったらしい。
当時の米倉庫も残っている。
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