安田城跡
安田城跡について
築城年代は定かでは無いが、もともと居館だったものを、豊臣秀吉の富山城攻めの際に、前田利家の家臣である岡嶋一吉が入城し攻略の拠点として改修したものと思われる。富山城攻めの際には白鳥城の支城として機能し、富山城落城後も2年程前田氏の拠点として使用されたが、慶長年間には廃城となっている。使用された期間が短かったこともあり、大きな改変を受けることもなく、状態良く残る数少ない戦国期の平城遺構として貴重で、小城郭としては珍しく、国指定の史跡となっている。
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【周囲の水堀】 |
城域の周囲は井田川の水を引き込んだ幅の広い堀に囲まれている。現在は蓮に覆われている。
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【右曲輪】 |
綺麗に整備された土橋を渡り右曲輪へ。南北に細長い曲輪で、土塁はない。右曲輪とは珍しい名前だが、本丸から二ノ丸を見たときに右にあるという事だろうか。北側には、どういう用途のものかは分からないが、珍しい形状の突き出た部分がある。
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【二の丸】 |
広大な二の丸。西側と南側に虎口があり、本丸側以外の三方向は高さ1.5m程の土塁で囲まれている。
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【本丸土橋】 |
二の丸から北側の本丸へ。幅の広い土橋で繋がっているが、二の丸の中心からはだいぶずれている感じに見える。
この辺が、もともと居館があった本丸に後から造成したと考えられているところだろう。
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【本丸】 |
広大な方形の本丸。しかし、広さよりも何よりも周囲の土塁の幅の広さに驚かされる。高さは3m程だが、幅は10m以上あり、それが全周にわたって続いている。二の丸にも土塁が巡っていたが、全然規模が違う。攻城の拠点として改修された規模の小さな城にもかかわらず、何のために、これ程広い土塁が築かれているのだろう? 東側の一部が発掘され断面展示してあったが、掻き上げと言うことくらいしか分からなかった。
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【本丸北側】 |
本丸の北西隅は、井田川の堤防で堀と土塁の一部が削られてしまっているが、ここ以外はほぼ完存している。
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【本丸北側】 |
流石は国の史跡だけあり、資料館も併設されている。
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