Japanese Castle

和歌山城 大手門~松ノ丸

大手門~松ノ丸

【一の橋と大手門】

 二の丸の北東に位置する大手門。当初は一之橋御門と呼ばれていたが、浅野氏の頃に大手が南の岡口門から北側に変更され、寛政8年(1796)には大手門と改称された。明治42年に倒壊したが、古写真などを元にして昭和58年に復元され、翌年には一の橋も復元された。紀州藩5代藩主の吉宗の頃は、この門外に訴訟箱が設置されていたらしい。
【曲輪】

 大手門入った場所にある南北に長い曲輪。二の丸の東に位置し、二の丸とを隔てる石垣が続いている。また、東側の水堀に面した石垣上には長い雁木が設けられている。曲輪内には当時からのものと思われる井戸が残っている。
【一中門跡】
 上記の曲輪と南側の御蔵の丸との間に設けられた巨大な枡形門。大手筋だけあり、巨石を使った見事な切込接の石垣。当時はこの石垣上に櫓門が建てられていたと思われる。
【一中門横石垣】
 一中門跡の東側、御蔵の丸との間は高さ4m程の石垣で仕切られているが、その石垣は東西で積み方が異なる。東側は比較的小さい石の打込接ぎだが、西側の一中門近くは大石を用いた切込接ぎとなっている。一中門整備の際に改修したのだろう。
【伏虎像】
 一中門跡を抜けた場所にある伏虎像。和歌山城は、城山が海から見ると虎が伏している姿に見えた事から虎伏城などとも呼ばれているらしい。まぁ城に強そうな名前を付けたがるのは、どこでもありがちな話。
【御蔵の丸】
 上記の一中門から南の曲輪が御蔵の丸。本丸への大手とされた表坂の入口にあたる曲輪で、表坂を守る馬出的な役割をしていたと考えられる。北側に一中門、南側には岡中門が設けられており、周囲の石垣には全周にわたって雁木が残っている。
【城山の石垣】
 戦国期から江戸期を通じて使われていた和歌山城の石垣には、古いものから新しいものまで見られるが、御蔵の丸周辺の城山の石垣は、古い時代の野面積みとなっている。木々が生えて孕んでいるところもあり、崩落しないか心配な場所もある。
【岡中門跡】
 御蔵の丸の南に設けられている岡中門跡。松の丸角櫓の高石垣と共に枡形を形成している規模の大きな門。ここも当時は石垣上に櫓門が建てられていたと思われる。
【表坂】
 御蔵の丸から松の丸へと至る表坂。松の丸角櫓の石垣横を折れながら登る。この登城路が大手とされていたが、実質の中枢部は二の丸だったので、どれだけ重要視されていたかは分からない。二の丸からの登城路の裏坂の方が距離も短く、使いやすいように思える。
【松の丸角櫓石垣】
 松の丸の南東隅に位置する角櫓の石垣。徳川頼宣の大改修(1615~1624)の際にに築造された高石垣で、不明門に匹敵する高さ14mの見事な石垣。ここからは岡口門方面も見渡せた。
【松の丸】
 本丸の南側の中腹に位置する松ノ丸。表坂から本丸に至る通路のような曲輪。南側は野面積みながら、高さ10m近くある見事な石垣が残っている。
【松の丸 七福の庭】
 初代藩主の徳川頼宣の頃の頃に本丸御殿に造られた庭園の一部が、大正12年の浄水場設置に伴い松ノ丸に移設されている。七福の庭と呼ばれ、七福神に似た石を配置しているものらしい。