長谷堂城



【長谷堂城】
image-1  詳しい築城年代は不明ながら、山形盆地の南を守る要衝に位置する独立丘である為、 古くから城が築かれていたと思われる。永正11年(1514)伊達稙宗が最上領に侵入し、 上山城と長谷堂城を攻撃した記録が残っている事から、この頃には既に最上氏の城として 機能していたと思われる。 慶長5年(1600)の北の関ヶ原とも言われる慶長出羽合戦の際、この城をめぐって 長谷堂城の戦いが行われた事で有名。この際、直江兼続が率いる2万の大軍に対し、 志村伊豆守光安率いる千名(3千または5千という説も)程の兵で籠城し、2週間以上守り通した。 慶長6年(1601)に志村伊豆守光安は長谷堂城の戦いの戦功により加増を受け酒田東禅寺城へ移り、 長谷堂城には坂紀伊守が入るが、元和8年(1622)最上騒動で最上氏が改易となり、 長谷堂城も廃城となった。


【城址公園】
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 城山の北東、八幡崎口の入口近くにある城址公園。現在は中途半端な感じの空堀も 一部復元されているが、当時は幅7m、深さ2.7mと規模の大きい水堀で、 城山の周囲を一周巡っていた。また、東側は城下を囲むように二重になっていた。


【八幡崎口】
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 城山の北東にある八幡崎口。中腹の八幡神社のある曲輪までは舗装もされており、 現在一番登りやすい登城口となっている。八幡神社のある曲輪は、北の尾根上の先端に位置し、 物見のような役割を果たしていたと思われる。

【八幡崎口】
image-1  八幡神社から更に本丸に向かって登ると尾根上の細長い曲輪に出る。この曲輪の西側には、 上杉群に備えて設けられた帯曲輪軍があるものの、その他の部分には切岸もあまり見られず、 自然地形の尾根に見える。

【帯曲輪群】
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 城山の北東斜面に設けられた帯曲輪群。長谷堂合戦の際、上杉軍が菅沢山に本陣を置いたのを見て、 急遽その正面にあたる位置に設けたと言われている。麓まで12段の帯曲輪が続いているらしいが、 上の3〜4段程しか確認できない。曲輪の幅も2m程しか無く、どれほどの効果があったかは微妙なところ。

【八幡崎口〜帯曲輪 土塁】
image-1 image-1  尾根状の曲輪から本丸に向かう途中に設けられた土塁と空堀。現状では高さ1mもなく、 形状も分かりにくいが、当時はもっと堅固なものだっただろうと思われる。


【帯曲輪】
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 主郭の周囲を取り巻くように設けられた帯曲輪。場所によって数段の帯曲輪が設けられているが、 中でも主郭北側下の帯曲輪は幅も広く枡形虎口などもあったようだが、遺構は良く分からなかった。


【帯曲輪〜主郭】
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 主郭東側の帯曲輪から主郭へと至る登城路。切岸の斜面を登る急な登城路で、 何度か折れ曲がり横矢がかけられている。


【主郭虎口】
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 主郭西側に設けられた虎口。現在、鳥居と社が建てられている部分が一段下がっており、 当時の枡形の面影が残っている。

【主郭】
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image-1  比高85m程の城山の最高所に位置する主郭。周囲はしっかり切岸加工されており、 特に北側斜面から西側斜面にかけては、周囲の帯曲輪との高低差10m程の鋭角な切岸が はっきりと分かる。これは長谷堂合戦の際、上杉軍の本陣があった北西方面を意識して 造成されたものと言われている。 現在は石碑も建てられ、山頂広場として見晴らしの良い公園になっている。

【主郭からの眺め】
image-1 image-1  長谷堂城から山形城までは、直線距離で僅か6km程度。本丸からも山形城が見える。 長谷堂城が落とされれば、山形城は目と鼻の先だった。逆に上杉軍からすると、 この城を落とさないで直接山形城に向かうのは、挟み撃ちの危険があった事が良く分かる。


【南側曲輪群】
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 主郭の南側には3段の腰曲輪が設けられている。それぞれがしっかりと切岸加工されており、 一部に大きな石が転がっていたが、当時は石積みのようなものがあったのだろうか?


【帯曲輪〜長谷堂観音】
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 南曲輪から長谷堂観音へは尾根上に曲輪が設けられており、その両側には腰曲輪も設けられている。 観音坂口、湯田口からの登城路はこの曲輪に続いている。


【長谷堂観音】
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image-1  南の尾根の先端に位置する長谷堂観音のある曲輪。長谷堂城の名前の由来になった。 周囲には切岸加工が見られ、腰曲輪も設けられている。


【二重堀】
image-1 image-1  城域の南西尾根、長谷堂観音の南に設けられた二重堀。長谷堂合戦の際に西から攻めてくる 上杉軍に対する防御の為に掘られたものらしいが、藪で分からなかった。


【湯田口】
image-1 image-1  城山の南西に設けられた登城口。長谷堂観音に通じており、途中には食違い虎口の跡が残っている。


【西側】
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 湯田口から西向口あたりにかけての西側の斜面は、直上できそうな 緩やかな斜面が山麓まで続いており、特に防御遺構らしいものも見られない。 一部には帯曲輪群や二重堀などを設けて頑張っている一方、随分とこの辺りは手薄な印象。


【西向口】
image-1  城山の西側に設けられた登城口。この近くの外堀沿いには枡形の虎口が設けられていた。


【御前清水】
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 長谷堂城の山頂部には井戸が無いが、周辺の山麓には数多くの水源があり、 当時はこれら山麓の水源から水を汲み上げていた。中でも、北西の山麓にある清水は 城主が飲み水に用いた事から、御前清水と呼ばれている。 ここから帯曲輪群の横を通る登城路が設けられている。


【東側山麓】
image-1  東側山麓。この辺りは城下町が形成されており、この城下町を取り囲むように 水堀が周囲を巡っていたものと思われる。


【大手口】
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 城山東に設けられた内町口。当時の大手口にあたり、途中には現在阿弥陀堂と なっている曲輪などが見られる。


【東側曲輪】
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 本郭の東側下に位置する曲輪で、大手口を見下ろす場所に位置している。 広い曲輪で、周囲は木柵が復元されている。


【観音口】
image-1  搦手口にあたる登城口で、長谷堂観音に続いている。


【長谷堂城から見た菅沢山】
image-1 image-1  慶長出羽合戦の際、直江兼続が本陣を置いた菅沢山。長谷堂城からは直線距離で僅か1kmの位置。 長谷堂城に比べるとかなり低い丘陵。現在は丘陵の上部を中心に宅地開発が進んでおり、 明確な遺構は見られない。

【菅沢山 直江本陣跡】
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 沢泉寺の本堂の脇を登った平地、菅沢山の中腹が直江兼続の本陣跡とされており、 当時は周辺に空堀などもあったらしいが、現在は明確な遺構は確認出来ない。 本陣前には旗印のようなものが造られ、その前だけ草が払われて長谷堂城からも 見えるようになっている。 本陣が置かれた当時は雲沢院という寺院だったが、撤退戦の際に焼き払われてしまい、 後に沢泉寺が建立されたらしい。


【主水塚】
image-1 image-1  長谷堂と直江兼続の本陣があった菅沢山との間にある供養碑。このあたり一帯は 長谷堂城の戦いの際に最激戦が展開された場所で、直江兼続配下の武将として、 長谷堂城の戦いで活躍した上泉主水泰綱が討ち取られた場所と言われている。 上泉主水泰綱は剣術新陰流の祖・剣豪として有名な上泉信綱の嫡孫で、不世出の剣豪と称された。 もともと後北条氏に仕えていたが、小田原の役で後北条氏が滅亡した為、関ヶ原の戦い直前に 上杉景勝から軍備強化の一環で仕官を求められ、上杉氏の家臣となっていた。 戦いが終わった後、地元の人々は上杉・最上両軍の戦死者を分け隔てなく埋葬し供養したと言われ、 現在でも両軍の戦死者の供養が続けられている。