| 【餐霞館】 |
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城域の南に位置する餐霞館跡。上杉鷹山が35歳で家督を譲り隠居し、
73歳で亡くなるまでの38年間、この館に住みながら政務を後見した。
霞を食べるような清貧な生活をおくる意味を込めて餐霞館と名付けたと言われている。
有名な『なせば成る〜』の和歌はこの館の一室に掲げた壁書の一部らしい。
現在庭園として整備されている部分は当時の餐霞館の東南の一部。
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| 【直江石堤】 |
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| 米沢移封後に直江兼続の治水事業の一環として整備された堤防。 現在でも上辺約5m、底辺約9m、高さ約約2mの石堤が長さ1.4kmにわたって残っている。 石堤の中心部にはは直径1m以上の巨石が多く見つかり、野面積、斜行積、交互積 などの後世の修復跡も残る貴重な遺構。この付近の地名から谷地河原堤防とも呼ばれている。 |
| 【札の辻】 |
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城域の東側、三ノ丸の外張に位置する札の辻。当時は大手門につながる重要な十字路で、
米沢領内の街道の起点となっていた。高札場も設けられていた事から、札の辻と呼ばれた。
高札場は数枚の高札が二段に掲示出来、屋根や周囲の柵も設けられた大きなものだった。
明治になり廃止された。
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| 【武者道】 |
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当時の三の丸内に位置し、下級武士が帯刀せずに買い物をする際に使用していた武者道。
市内に何箇ヶ所か残っており、その一部は整備され歩けるようになっている。
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| 【上杉憲政の墓】 |
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照陽寺にある関東管領上杉憲政の墓。上杉憲政は北条氏に攻められ、長尾景虎を頼って越後に逃れ、
関東管領職と上杉家を長尾景虎に譲った。その後、御の乱に巻き込まれ57歳で亡くなり、
越後の照陽寺に葬られたが、上杉家の米沢移封に伴い照陽寺とともに米沢に移された。
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| 【食い違い】 |
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城の南側、照陽寺前の国道は食い違いになっている。この辺りには当時三の丸の外堀が
あったので門の名残かもしれない。
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| 【直江兼続の鉄砲鋳造遺跡】 |
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白布温泉に残る直江兼続の鉄砲鋳造遺跡。関ケ原の合戦にともない直江兼続が、
近江や堺の国から技師を招き、ひそかに鉄砲を作らせていたという記録が残っている。
また、温泉旅館に残る古記録には、先祖が鉄砲職人の世話を行った事が記されている。
兼続は鉄砲技術の修練も奨励し、大坂冬の陣の鉄砲隊の活躍につながった。
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