【本丸跡】 |
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指月山山麓に位置する平城部分の中枢にあたる本丸跡。内部は、ほぼ全面にわたり本丸御殿が建てられ、 南西隅に天守、南東隅に月見櫓が建てられていた。それ以外の周囲は多門櫓や土塀で囲み、 その外側には幅の広い内堀がめぐらされた堅固な造りだった。現在、建物は残っていないが、 周囲の石垣が良く残っている。 |
【極楽橋】 |
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二の丸から本丸へと至る極楽橋。幅36mの水堀に架けられた石橋で、現在は石橋が架けられているが、 当時は木橋だった。極楽橋、観音橋とも呼ばれていた。 |
【本丸門】 |
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極楽橋を渡った場所にある本丸門。本丸の大手にあたる門で、内門と外門とで枡形を 構成している堅固な造りだった。門は明治4年(1871)に撤去されたが、石垣が残っている。 現在もここに門番がおかれ、入城料を徴収している。 |
【雁木】 |
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本丸の南側、内門から天守台までの石垣内側に築かれた長大な雁木。 全国でも最大規模のもので、当時は石垣上に土塀が巡らされていた。 |
【天守台】 |
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本丸の南西隅に突出して築かれた天守台。11間(約20m)×9間(約16m)、高さは11mほどあり、 扇の勾配の石垣が見事に残っている。明治7年に天守は解体されたが、その礎石は今も残っている。 |
【付櫓】 |
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毛利家の前任地の広島城では、天守に小天守や渡櫓などが多く付設していたが、萩城天守には 北側に、天守への入口施設としての付櫓が付設していたのみのシンプルな造りとなった。 現在も本丸〜付櫓、付櫓〜天守への石段の他、礎石も良く残っている。 |
【月見櫓跡】 |
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本丸の南東隅、内堀に突き出した部分には月見櫓跡が建てられていた。二の丸東門への見通しが良く、 東側の守りの要となる櫓だった。古絵図によると二重櫓だったらしい。 |
【御台所門跡】 |
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本丸東側中程に設けられた御台所門跡。平虎口だったらしい。 |
【東側石垣】 |
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本丸の東側に残る石垣。御台所門跡から北側では外側の二の丸との間を隔てる高さ3m程の 石垣が続き、御台所門跡から南側の内堀に面した部分は高さ1m程の石垣となっている。 |
【北東隅櫓台】 |
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本丸の北東隅に残る櫓台。現在は本丸北側と東園周辺の二の丸との境は判然としないが、 この櫓から続く土塀で隔てられていた。この櫓台から続く本丸東側の石垣は現在も良く残っている。 |
【志都岐山神社】 |
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本丸跡に建てられている志都岐山神社。毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳の5柱を祭神とした神社で 明治11年(1878)に創建された。 |
【花江茶亭】 |
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本丸内に移築されている花江茶亭。13代藩主毛利敬親により安政5年(1858)頃に 三の丸の花江御殿に建てられた茶室で、4畳半の茶室と3畳の水屋からなっている。 明治20年(1887)に本丸に移された。 |
【梨羽家茶室】 |
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花江茶亭の横に残る萩藩寄組士梨羽家(三千三百石)の別邸茶室。年末の城内すす払いの際に 藩主が一時ここで休憩した事から、煤払いの茶室とも呼ばれている。 |
【西側】 |
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本丸の西側には武者溜りのような曲輪が設けられ、入り組んだ形状になっている。 西側虎口を守る馬出しのような役割を担っていたものと思われる。 |
【西門跡】 |
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本丸の西側に設けられた虎口。土橋の内側に西門が建てられていた。 本丸の入場料を払いたくない場合は、こちらから入ると良い。 |
【門櫓跡】 |
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武者溜りのような曲輪の虎口辺りに設けられている門櫓跡。 その名の通り、西側の門を守る櫓だったと思われる。 |
【岡崎櫓跡】 |
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門櫓の横に位置する岡崎櫓跡。門櫓とともに西側の虎口を守っていたと思われる。 |
【洞春寺】 |
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本丸の西側の奥まった場所に位置する毛利元就の菩提寺、洞春寺の跡。 慶長11年(1606)に安芸国から移され、境内には元就の木造を祀った顕西殿の他、 徳川家康の木造や歴代将軍の位牌を祀った霊牌殿などが建てられていた。 文久3年(1863)山口に移された後、明治2年(1869)の山崩れで残された建物は破壊されたが、 周囲の石垣が残っている。 |
【西側石垣】 |
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洞春寺から西側の妙玖寺方面に続く石垣。高さ2m程の直線的な石垣が続いている。 現在、この石垣の南側は埋め立てられて公園になっているが、当時は海だった。 |