【詰丸登城路】 |
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本丸の北側から詰丸に延びる登城路。標高143mの指月山の山頂に位置する詰丸までは、つづら折りの登城路が続く。 途中、古そうな石垣も見られるが、当時の遺構かどうかは不明。途中、しつこいくらい眺めが良くない旨を記した 案内があったが、余程文句でも言われたのだろうか?石垣を見たいだけで、眺望は気にしませんのでお構いなく。 |
【迎徳神社跡】 |
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登り初めてすぐの平場は、7代藩主毛利重就によって建立された迎徳神社があった場所らしいが、 現在は石碑しか残っていない。迎徳神社は毛利元就・隆元・輝元と初代藩主の秀就が祀られていたらしい。 |
【詰丸本丸南側石垣】 |
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登城路を上っていくと、本丸南側の石垣が見えてくる。下半分は一見崩れた感じの緩い斜度の石垣となっている。 これは、上部の石垣が崩れないよう築かれた、鳥取城などでも見られる巻石垣のような役割をしていたのだろうか? ま 本当に崩れただけなのかもしれないが。一部の石には石切穴も見られる。 |
【要害門】 |
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詰城の大手虎口にあたる矢倉門。細長い枡形状の石垣が残っており、当時は石垣上に櫓が設けられていた。 一部土塀が復元されている。 |
【詰丸二の丸】 |
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要害門を抜けた場所が二ノ丸。詰丸の西側半分にあたり、東西、南北40m程ある山頂にしては広い曲輪。 現在、建物は残っていないが、当時は周囲に2基の二重櫓が設けられ、それらの間を土塀で繋いでいた他、 要害番所と宿所である居小屋が建てられ、平時でも6〜7人の藩士が警護していた。 随所にくさびの跡がついた石が転がっている。 |
【詰丸二の丸 貯水池】 |
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二の丸に残る巨大な貯水池跡。井戸のなかった詰丸の貴重な水源として設けられたもので、 周囲は漆喰で塗り固められている。籠城する気満々だったのだろうか。本丸にも同様の貯水池が残っている。 |
【詰丸二の丸 瀬戸崎矢倉跡】 |
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詰丸の周囲は石垣に囲まれ、要所には矢倉が設けられていた。二の丸西隅には瀬戸崎矢倉が建てられており、 矢倉台の石垣が残っている。 |
【本丸】 |
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二の丸の東側、一段上がった部分が本丸跡。標高約143mの指月山の山頂に位置する東西50m、 南北40m程の曲輪。天守はなかったが、周囲に4基の二重櫓が設けられ、それらを土塀で繋いだ 堅固な造りだった。その他、藩主が登城した際に用いた茶屋なども建てられていたが、居住性に乏しく、 有事の際の籠城用の場所だった事が分かる。 |
【二ノ丸〜本丸】 |
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本丸と二の丸との間は高さ1.5m程の石垣で仕切られており、当時はこの石垣上に土塀が建てられていた。 また、中央付近の石段部分に棟門が設けられ、本丸と二の丸とを連絡していた。 |
【本丸切割石】 |
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築城時に石垣の石材を切り出すために開けられた矢穴の残る大石が、現在もる数多く残っている。 石は花崗岩で、矢穴はノミで開けられた。 |
【本丸貯水池】 |
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本丸にも二ノ丸と同様の巨大な貯水池跡が残っている。二ノ丸のものと合わせると結構な量の水が 蓄えられたものと思われる。 |
【本丸矢倉台】 |
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本丸の南東隅には辰巳矢倉と大将矢倉が設けられていた。建物は残っていないが、石垣が残っている。 |
【本丸埋門】 |
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本丸の東端には搦手にあたる埋門の石垣が残っている。小規模ながらも枡形を構成した堅固な門。 |
【本丸東側石垣】 |
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本丸の東側は急峻な斜面の上に高さ2m程の石垣が続いており、一部は二段に築かれている。 |
【本丸北東隅石垣】 |
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鬼門に当たる本丸の北東隅には、角を欠いた石垣が残っている。この石垣上には 北国櫓と呼ばれる櫓が建てられていた。 |